おれは亀梨君という人が、あれあのとおりでちっともかまわなかったのだ。
いつもパン屋でいっしょけんめいに働いていて、
そばをとおると少し吃りながらも「おはようございます」、
それから、つたない言葉でせいいっぱいにおれの身なりを褒めてくれて、
大人たる染みや淀みをたったひとつも感じさせぬ、無邪気な笑顔で「いってらっしゃい」と手を振る。
朝でも昼でも夜に会っても、「おはよう」「いってらっしゃい」なのだが、その応用のきかなさが好きだった。
社会の波にごろりごろりと、大量に芋が洗われるさまに似て、転げ揉まれているおれには、
彼はいとおしくて純粋で嬉しいものだった。
彼は施設で育ち、それであのパン屋に住み込みで働いている。
なぜって、あのパン屋のおかみさんはおれの母親の友だちだから、だから知っている。
彼が担当しているパンは、本当に美味しくて、
こないだなんかは、「こんな奴らがつくったもんなど食えるか」だのと暴言を吐いた通りすがりのくそ爺に駆け寄って、
いっしょけんめい試食を勧めて、結果的に「美味い」と言わせていた。
ふにゃりと可愛らしく笑い、ほだされたその爺が食パンを二つ買って、思わず周りの人間は拍手してしまったほどだ。
頑固爺のカビ臭く凝り固まった思想を、三十秒間で解いてしまうのだ。
とてつもないことだ。政治家だってできやしない。
誰かに言ったら必ず呆れられるか笑われるのだが、亀梨君にはカリスマ性があるのだと思っている。
おれはそのころから、彼に並々ならぬいとしさを感じていて、葛藤の末にこれは恋だと知った。
せめて彼が、女性なら。
おれは何も顧みず、彼に求婚したかもしれない。
でも彼は男性で、パン屋での仕事に誇りを持って励んでいて、
だからおれはただただ見守り、毎日パンを買うだけだった。
しかしながら本当を言うと、おれはそれだけで、それなりに満足していたのだが。
ある日、偉い偉い学者さまが、彼に目を付けた。
もっとたくさんの人と、上手におしゃべりしたくはないか、と持ちかけた。
脳に、なんらかの実験的手術を施すという。
疑うことを知らない彼は、おかみさんの反対を押し切って、学者さまについていってしまったという。
かしこくなって、たくさん、いろんなことをしって、おしゃべりをして、いろんなひとにお礼をしたいのだという。
おれがそれを知ったのは、その日の夜。
おれは走った。
形振りも、外聞も、次の日の仕事のことだって、かまっていられなかった。
教えてもらった研究所に、ほとんど不審者のようにして上がりこんだ。
ついたのは夜中だから、もちろん誰もいやしないかと思ったのに、研究者たちはらんらんと目を輝かせて
彼にあれこれしていた。
管をたくさんつながれ、脳波らしきものを調べられ、血液を採取された痕もある。
彼はおびえていたが、それと同じだけ、希望に満ち溢れていた。
彼の関係者です、となんとか入れてもらった研究室で、おれはもう哀しくてしかたないのだ。
これは異常だと、こんなのは非人道的だと、真人間でいられるのはもうこの場でおれしかいないのだ。
大人の体に子どもの心の宿る彼と、子どもの好奇心だけを純粋培養したような考えを持つ大人たちと、凡人のおれと。
彼の手術は、もう止められそうになかった。
なんといっても彼らは、哀しいことに亀梨君を含めた彼らは、聞く耳をもたなかった。
数週間して、亀梨君はパン屋にやってきた。
おれは彼に会った。遭遇した、といったほうが正しい。
いつもの習慣でパン屋へ行ったら、久しぶりに彼がいた。
以前よりずっと、はきはきと喋るようになっていた。
まるで別人で、
今までありがとうございます、これからは大学で、えらい先生たちと一緒に勉強をしたいです、
ときちんとおかみさんに挨拶をしていた。
亀梨君、と声をかけると、
「赤西さん、こんばんは」
と返された。
彼がこんばんはと言った。
笑顔を調節して、いつもの爆発するような、純な笑顔でなく、微笑している。
おれにはそれが衝撃的で、二の句もつげずにいた。
「赤西さんがあのとき、心配してきてくれて、おれとっても嬉しかった」
「でもだいじょうぶ、おれ、すこしずつ賢くなっているよ」
「心配しないでね、また遊びに来ます」
彼はそれだけ言うと、小学生のするようなやり方で礼をして、去って行った。
おれはその場から去ることで精いっぱいで、顔色を心配するおかみさんに一言、
「もうここに来ないかも」
とだけ告げた。
おれは泣いた。
あんなにおれの心を救ってくれていた彼が、もうとてもじゃないがおれの手の届くところにいない気がして、
ベッドに突っ伏し、枕を放り投げて泣いた。
さらに数週間して、亀梨君がうちに来た。
おれはあの一件以来とんと無気力で、仕事場と家とを往復するような生活を送っていたから、
日曜となれば必ず家にいるに決まっていた。
亀梨君は、さらに見違えるほどにしっかりしていて、垢ぬけて美しくなっていた。
洗練されたスーツに身を包んで、彼は玄関先でこう切り出した。
「IQというものをご存知ですか。
おれは前が68だったそうなんですが、現在時点、120程度まで上昇しております。
IQが90を超えたあたりから、ふと思うことがあるのです。
・・・赤西さん、おれはあなたが好きです。」
「いつも、おれを気にかけてくだすって、あなたはおれがどんなであっても、関係なく親切でした。
あなたの存在がおれを明るくしてくれていた。」
「ご迷惑かと思ったのですが、ただ、伝えたくて。
本当に、自己中心的な告白でしかありません。申し訳ありません」
彼は泣いた。
あの日のおれと違って、理性的な泣き方だった。
それもそのはず、彼はおれよりずっと賢くなってしまっていた。
けれど、と思った。
彼の本質はまったく彼そのもの、変わっていない。
まっすぐで、思い立ったらおれの家まで来てしまうような。
それでいて、思いをぶつけてごめんなさいと泣くような。
おれはもう彼を抱きしめるしかできなかった。
おれも好き、あなたが大好きです、と伝えるしかできなかった。
すると彼は今度こそ、まるでこの間に戻ったような、
そのままむき出しの感情で、
子どものように声をあげて泣いた。
くしゃくしゃで、ぐずぐずの顔で、
それを見ておれは、この人がこの先どうなろうとも、おれが守ってあげたいと心底思ったものだった。
アルジャーノンを見て
なんちゃってパロで心からすみません