風呂場で人魚を飼っています。
刺された。
部屋のドアを開けたとたん、ズブリ、と。
その音が、己の肉を介して聞こえた気がして、嫌な汗に身震いする。
そりゃもう大変な血が、流れている、おれの腹から。
刺された相手の顔なんて、なんど確認しても
海馬の隅にすらひっかからなかったけど(つまるところ、記憶にない、のだ)、どうやら。
「あんたが悪いのよぉぉ!ホストなんかなってぇぇ、アタシのこと捨てたくせにぃぃ」
とか泣いてるから、たぶん、昔切った女なんだろう。
ドジった。 と思った。
以前なら、こんなヘマしなかったのに、いつからだろう。
玄関のドアを開けるのにいちいち、ためらわなくなったのは。
と、そこまで考えてはじめて、気付く。
いつも笑顔で迎えてくれる同居人はどうしたろう?
「かめは」
「か、亀?」
「茶髪の・・・いた、だろ、っツ、」
「や、や、死んじゃう、じん、死なないで、動かないでよぉ、」
「てめーで刺したんだろうが・・・痛ッ、」
「じん、ごめんなさい、すきなの、あいしてるの、じん、」
「っいいからかめはどうしたんだよ!?」
血が流れる。
自分の脈動が文字通り、痛いほどにわかる。
この非常時に、心臓はそれでも、人魚の安否がわからぬ不安にまた脈を早めて
ぼんやりと
おれが死んだら人魚のせいも一割だな、などと考える。
「か、かぎ、あいてて・・・人、いたから、うしろから、刺したら、動かなくなっ・・・」
女を殴ることは最低だ、とは一応思ったが、
おれの人魚が傷つくことは、
およそこの世のどんな最悪な出来事よりも最悪だ、とも思ったので
とりあえず殴り飛ばしたい衝動を抑える理由も見つからず
おれの利き腕は持てる力を振り絞っていた、
「ちょちょちょ、すとっぷ!じーん、どうどう」
こいつ殴って、それから人魚の様子を、
「ちょ、こら、血でてるのに!興奮すんな!」
見に行って、やらないと、
「てめ、いいかげんにしねーと死んじゃうんだぞ!!」
やらない、と・・・?
「テンパってんじゃねえっての!!」
ガツンと
頬に衝撃
刺されたショックでも出血多量のショックでもなく
おれは
おれのかわいい人魚に殴られたショックで意識を失った。
「で、なんでこんなことに・・・」
目覚めてのち、おれの第一声はそれだった。
おれだってもっと「かめが無事でよかった」とか「かめまで巻き込んでごめん」とか
かっこよく呟きたかったけど、
「え、だってっ、こう・・・しな、と、ッじんのケガ、なおん、ない・・・ッ」
おれのかわいい人魚はおれの上で腰を振っていました。
あーびっくりした。
心底びっくりした。
寝て起きたら知らない女に乗っかられてたときだって、高校時代に担任の女教師に乗っかられたときだって
正直動揺すらしなかった。のに。
「・・・えっと、で、おれの腹に穴あけた張本人はどこ」
「ん、かえっ、た・・・じんは、ほもになりました、てゆったら、も、こないって・・・ぁ、ぁ!」
「じゃ、質問ふたつめ。なんでかめはおれとこんなことしちゃってるの・・・?」
「ッやっと、だってやっと、恩返し、できっ、た、
おれの、おーじさま・・・ッ」
浮かされたように潤んだままの瞳を
さも嬉しそうに細めて
電波なセリフを映画のワンシーンのように情熱的にささやいて。
頼りなげに、その肩がゆれた、長めの茶色の髪が蛍光灯に透けて、滴る汗が光にはじけた、
おれの
おれだけの人魚、
ふたつの足は、汗に濡れて、きめ細かい肌に、鱗の模様がうっすらにじむように浮かんでは消える。
こんなにきれいないきものをおれは知らない。
しばらくして
腹の傷はすっかりふさがり(ちなみに殴られた頬はいまだにズキズキする)、人魚は満足そうにそこを撫でてくちづけた。
女みたいにグロスやらなにやらでべたべたしていない、すこし湿った口唇の感触が思いがけず新鮮でくすぐったい。
したことないけど、そこにおれのくちをつけたらどんなに気持ちいいかを考えて
身震いした、
わかってはいたがおれも相当焼きがまわった。
「えっちすると治るわけ?」
「うん。人魚は不老不死ってゆうでしょが。そのおすそわけの手段、かな」
人魚は汗にはりついた前髪を、色気もなく輪ゴムで縛りあげた。
そのくせ、あっちぃ、とかつぶやいて伏せられた瞳は壮絶にいろっぽい。
電気を付けっぱなしだったことに今更ながら気付いたらしく、すこし恥ずかしかったのか
人魚はようやくおれの上から退いて、
ベッド脇に散らばった服の中から上着だけを身につけて、スイッチを消しに立ち上がった。
「明るいとこですんのが趣味ってわけじゃねえから、な」
じんを助けなきゃって必死で、電気消すの忘れただけだ、
とか言いながらおれをにらむ人魚は、薄暗がりでも十分に、やばかった。
「あー、非現実には慣れたつもりなんだよ、おれってさ」
「?うん」
「かめが人魚だってこともさ、えっちでケガが治ることもさ、不老不死?とかもさ、おーじさまがどうとか言われたってさ」
「うん」
「あーでもさ、おれって可愛いんだよ、自分で思ってたより」
「だからぁー、なにがいいたいんだよ?」
はよいわんかい、とか、言いながら、若干の苛立ちを視線で寄越された。
すたすたと無警戒にこちらへ歩みよる。
「おれ、そんなとんでもねえ非現実よりか、
かめとえっちできたことのほうにドッキドキしてんの。
あわよくばお前にちゅーしたいとか思っちゃってんの、ガキみてーに。
・・・な、かわいいだろ?」
春に片足踏み込んだといえど、まだまだ肌寒い三月初旬の午前5時、
外はまだ夜の空気をにじませて。
人魚は後ろを向き、そろそろ寝なきゃね、なんてつぶやきながら、遮光カーテンに手をかける。
それを閉めきり、さらに室内は暗くなって。
いきなりどん、と衝撃。
くちびるに、微熱。
かめの匂いがして、感触がして、
姿がよく見えないぶん、胸が熱くなるようなキスだった。
「じんがすき。どうしよう?じんが好きだ」
困惑と情熱をその口唇は綴って、おれを喜ばせる。
人魚の瞳から零れ出た涙が、彼の足に滴って。
暗がりの中で、そこがまた、
綺麗な空色にきらめいた。
汗とか涙は塩分を含んでいるので、
人魚の肌に付着すると鱗の模様がうすーく浮かんだりしちゃうんだよ、という設定でここはひとつ