ミノタウロスの迷宮
生まれた時から、迷宮にいた。
乳母はいつも嘆いていた。
私ばかりがこのような役回り、ああ辛い、苦しい、本当の子に会いたい
おれに乳を含ませながら、そればかり。
だが会えるわけはないのだ。永遠に辛く、永久に苦しいのだ。
なぜならばここは迷宮だからだ。
ラビリンス、ときれいな発音を聞いたのは2つのときだ。
ここは、迷宮、ラビリンスです、おかわいそうに、王子、
乳母は涙して語った。
乳母は2年して、ようやっとおれを可愛く思えるようになったらしかった。
なにしろここでは、震えるような寒さと時々悪戯する鼠の数匹の他には、おれしか仲良くするものがいないのだから、
辛く当るよりは可愛がったほうがいくらもましだと気づいたのだろう。
改心した乳母は、あれこれとおれに知恵をつけようとした。
おれは2歳を数えたばかりだったが、読み書きや計算など簡単にこなした。
乳母は阿呆ではないにしろ、凡庸なただの下女だったから、おれはすぐに乳母の持っている知識の全てを啜りつくした。
乳といっしょに啜ったそれらでは満足いかなくなり、さらなる知を求めた。
よくよく考えれば、阿呆はおれだ、そんなものよりこの理不尽な状況、その理由や打破する策の一つも考えればよかったのだが。
幼いおれにはこの世界が全てで、だから疑問にも思わず、知のみを求めたのだ。
乳母は、定期的に差し入れられる食事、その食べ終えた食器に手紙を添え付けた。
「あなたのご子息は、大変賢くいらっしゃいます。
どうか、和也様の呪われたお生まれを憐れみ、正しい知識をお与えくださいますよう」
と書いた。
初めて自分の名が和也というのだと知った。王子、王子としか呼ばれないものだから、自分の名を王子というのだと思っていた。
不可思議なこと、乳母はたくさんの言葉を教えてくれたのに、おれの名だけは読みも書きも教えてはくれていなかったのだった。
また、呪われた、の意は知っていたが、なぜ自身が呪われているのだか見当もつかずにいた。あなた、と語りかけられた相手がだれかも、見当がつかなかった。
数日して、食事を持って一人の少年がやってきた。
貧しい身なりをしてはいたが、凛とした顔立ちだった。
おれは初めて、自分と乳母以外の人間を見た。
呆気にとられるおれをしりめに、少年は堂々と、きらびやかな文言で着飾った手紙らしきものを、乳母に渡した。
乳母は喜んだ。自分はお役御免であるとおれに告げ、わずかの名残惜しさも感じさせずに迷宮を去った。
「あれは、地図です」と少年は言った。
おれは乳母に対し、それなりに恩愛に近い感情を抱いていたので、彼女が突然去ったことに驚き、傷つき、茫然と少年を見た。
「うばやは、どこへいったの」
「迷宮を出て、温かいところへ帰ったのです」
「本当の子どものところへいったの?」
「きっとたくさんの褒美と強固な口止めが与えられ、幸せに、窮屈に、暮らすのでしょう」
「おまえは、うばやのかわり?」
「そうです、和也様。私はここで、あなたに色々を、お教えするために参りました」
少年は、当初の頃の乳母とは違い、取り乱しもしなかった。
にこりと笑って、おれの頬を撫で、傅いて、
「仁と申します」
と名乗った。
仁は驚くほどに幼かったが、驚くほどに博識だった。
「手始めにあなた様のお名前の綴り方など」
と、すらすらと書き綴る字体までも大人じみていた。
あれほど心痛んだ乳母との別れなど忘却の彼方、おれはすっかり仁に心酔した。
3つになるまでに、おれの疑問はほとんどが解を得た。
4つになると、さらなる知識を与えられ、
5つになったときには、正しく社会と自身の状況について理解をした。
おれは、王国において2番目に生まれた王子だ。
予見者や星見の者、国中の占術師らに、呪われている、国を滅ぼす、と銘打たれて生を受け、
恐れた父王が迷宮に閉じ込めたという。
その正室でもある母が心を痛め、せめてと世話係や食事、身の回りの品々を与えてくれているという。
一片の疑いも知らず、おれは仁の与える全てを鵜呑みにした。
この迷宮を出る地図は、母王だけが持っている。
だが仁はそれを覚えてしまっていたから、おれは仁に連れられ、ひっそりと何度か外を見たことがある。
迷宮は複雑に入り組んでおり、入り口(実はいくつも存在する)の殆どが衛兵に守られているが、
何箇所かは手薄なところがあり、仁はそこを狙った。
外は眩しかった。
耳で聞くのと、体験するのとでは大きく違った。
圧倒され、息が詰まる。
きれいだ。
世界とは、世の中とは、かくもきれいなものなのか。
緑の自然や鳥のさえずり、宝石や色めく女性たち、そういったものばかりではない。
何もかも、たとえばおかみさんのどなり声や、道端の石ころ、蟻の行列ですら美しくて泣きたいのだ。
「陽の光を知らないものが突然にそれを知ると、目を焼いてしまう、
私がいいと言うまで、決して目を開いてはいけませんよ」
と仁が訳知り顔で呟き、幾重にもなる白い布で肌と目元を覆い、大きなひさしの帽子を被せてくれた。
10かそこらの少年が、麦わら帽を被った5つの子どもの手を引いていて、誰がそれを捕らえようと思うだろう。
仲の良い兄弟に見えたろう。おれたちの逃避行は順調だった。
たくさんの人や、海や、山や、街、何よりも空、たくさんのきれいなものを目にしておれは、その度に感動して泣いた。
初めての太陽はやはり、少しずつ慣らしてそれでもおれの目に優しくはなかったが、その痛みすら掻き抱きたいほどに大好きだった。
一緒に逃げよう、帰りたくないといつもぶつくさと漏らすおれを宥めすかして、仁はおれを必ず、石造りの冷たい迷宮に連れて戻った。
「まだ、そのときではありません。ご辛抱を、和也様」
仁は少しさみしげに、おれを抱きしめて、笑う。
おれはあっという間に12になり、仁に剣の稽古をつけてもらうまでになった。
他の者と比較しようもないが、それでも仁は腕がたつのだと肌で感じる。
仁だとて、幼いころからおれとともにあるのに、どうしてそのように上手く剣を扱えるのか不思議だったが、
その問いにだけは曖昧に笑うばかりで答えてはくれなかった。
知識にしたってそうだ。確かに普通の子どもよりは賢いのかもしれないが、それでも時事にまで詳しいというのはなぜか。
しかしすぐに、その疑問は解消した。
おれは夜中にぼんやりと目を覚まし、出会って十年いつも隣で眠る仁を手探った。
探れど探れど、右手は空虚を掴み、おれはあわてた。
「仁!どこへ、仁!」
とっさに夜の外界へ駆けだした。
地図などもう、とっくのとうに暗記していたから、衛兵の目を盗んで迷宮を抜け出すのは簡単だった。
あなたの父王は大馬鹿だ、息子の聡明さを見誤った、と仁はいつだったか笑っていた。
あなたにとってここはもはや迷宮ではない、迷宮にいるのは王である、とも。
いくら聡明と褒めそやされたところで、おれはただの子どもで、仁がいなければ不安で不安でたまらないのだ。
乳母の去った幼きあの日よりこっち、そばにいなかったことが一度もない男なのだ。
眠るときも食事のときも、着替えるときも体を清めるときにも、仁がいて、
おれは仁がいないとそのいっさいをできないと思い込んでいたのは否めない。
「仁、仁、」
頭の中で地図を広げ、仁に連れられた場所を駆けた。
夜を駆ける裸足の足は、千々に弾けそうに痛んだ。
頭上を覆う星々は、今日も変わらず澄んで冷たく、
いつだってひそひそ話ばかりで、おれの望むものを教えてはくれなかった。
仁はどこ。仁は。
街、森、酒場、いや、それともこの時間ならば、王宮の地下の、…
べそをかいて探していたおれに、待ち望んだ声が聞こえてきた。
いた!
「いざ参る、」
仁は、今では使われなくなったという地下闘技場において、たくさんの大人に剣を向けられ囲まれていた。
この場所は、仁から、王宮内においては王らに見つかりにくい唯一の場所だと知らされていた。
おれは物陰で震えあがったが、よくよく見ればどうやら大人たちは仁に稽古をつけている様子だった。
仁の剣先が、仁の倍はあろうかというような男衆の剣を弾き飛ばして、鈍く光った。
息一つ切らさずに仁はそこにいた。
目にも止まらぬ速さで鞘へと納まったその刀身が、カチンと小気味よい音を響かせると、対峙していた男が笑いだす。
「はっは、もう我々では、束になっても仁様にはかないませんなあ」
「さすが女王陛下の弟君でいらっしゃる」
「馬鹿者、声が高い!国王陛下のお耳に入ったらなんとする」
「まこと、ここで邪魔をされるわけにはいかんのだからな」
仁は大人たちのやりとりに静かに笑い、
「その通り、事を起こすには時期尚早というもの。
まだ和也様は幼い。だがあれは、王の器だ。
この国を堕落させるばかりの王を失墜させ、体の弱い王太子さまではなく、
和也様を唯一の王として戴く」
いつもより少し高揚した口振りで、屈強な大人たちに宣言した。
「お可哀そうに、和也様は迷宮に閉じ込められ、それでも絶望せずにおれなどをお慕いになる、
いつも明るく振る舞い、聡明で何事にも思案深い。
今は剣術もお教えしているが、あれは王たる太刀筋」
饒舌な仁は、まるでいつもと違う人間のようだった。
「おれは初め、なんの罰かと思ったのだ。
下男のふりをして迷宮に入り、呪われた王子と二人きりなどと、
姉上、そのような命を下すくらいならおれを殺してくださいとまで、
…おれはまだ7つの子どもでたいへんに短慮だった。
それがどうだ、ひと目王子を見ただけで、彼の方はすっかりおれを虜にした!」
大人たちは、また仁様ののろけがはじまったぜ、と野次を飛ばしながらも、
らんらんと目を輝かせて聞き入っている。
期待しているのだ。誰に?おれにだ。ただの迷宮の住人に、国を変えろと期待する目が幾十もそこにある。
おれはわけもわからないまま、なぜだか震えがとまらないのだ。
考えたこともなかった。おれを、王に。仁がそんなことを思っていると、毛ほども知らなかった。
やがて仁は、時勢を事細かに側近たちに聞きだし、
それは和也様に有利になるので続行せよだとか、王の圧政に苦しむ民たちを扇動せよだとか、逐一に指示を送る。
たまらない。
仁、仁!おれはただ、おまえと、陽の下で笑って暮らしたかったのだ。
国がどうの、王がどうの、おれは知らない。
おまえが隣にいて、それで迷宮を去ることができたなら、それが万事、おれの望みの全てだったのに。
なんかに影響されて書いちまったんでしょうね
もっとちゃんと調べろっていうね