おれの世界の、支配者が、死にました
家族とは名ばかりの、冷たい男でした
車の事故であっけなく死にました
おれは悲しみに暮れる遺族を演じながら、ようやく彼の呪縛から解放されることを、喜んでさえいました
おれは普通の男でした。
とりたてて派手でもなく、親に並外れて反抗することなく、それなりの大学へ通い、大人しい女の子と付き合い、きっとそのままどこかの会社へ入社し、そのまま年をとり、
とりたてて派手でもない人生を終えるのだと思っていました。
ところがおれの人生は、ある日突然、それこそ事故に巻き込まれたように、急転しました。
ブレーキが壊れ、他人の力でアクセルが踏み込まれはじめました。
抵抗を試みたときにはすでに、おれはおれのものではなくなっていたのです。
おれの父親は、小さな喫茶店をやっていました。母はおれが三つのときに亡くなっていました。
大学二年の夏、忘れもしない、太陽が世界を灼く正午、あっけなくそこは潰されました。
ドラマのようでした。店の前に黒塗りの車が停まりました。出てきた男達が差し押さえの紙を店中べたべたと貼っていき、父もおれも呆気にとられました。
これはいくらなんでも強引じゃないか、と父が食い下がると、男が一人、歩みを進めます。
「息子を差し出せ」
それでどうとでもしてやる、と、父よりはるかに若い男が、なにごとかが書き込まれた書類を父の目の前でひらひらと躍らせました。
父が殴りかかりました。
どう考えても避けられるはずの拳を彼は甘んじて左頬で受け止め、それから、彼は、
おれを見ました。
おれは、きっとおかしくなっていたのでしょう、その人非人の瞳を恐ろしく美しく思いました。
おいで、と、口唇だけで囁かれ、
身を焦がす運命しか辿りえぬと直感してそれでも、誘蛾灯に誘われた蛾のように、ふらふらと、彼の差し出す腕に引き寄せられたのは、
他ならぬおれでした。
殴られたときに切れたのか、その口唇の端、
心がえぐられるような
赤。
おれは、彼の養子になりました。
彼がおれを支配したがったからです。
おれといくらも歳の違わぬ身で、彼は、大きな組織の小さな支部を任せられていました。
彼はその大きな組織の頂点にたつひとの、息子でした。
彼の名は、養子縁組をさせられたときにはじめて聞きました。
赤西仁、といいました。
赤西、の姓は、自分の名前とあまり馴染みそうもありませんでした。
それから間もなく、大きな屋敷を宛がわれました。
そこは彼の私邸であり、おれの世界のすべてになりました。
彼は独裁者で暴君でした。
機嫌が悪いとすぐにおれを殴ったし、罵ったし、犯しました。
父に会いたいとの願いは一笑に付され、外に出たいというささやかな望みすら、頬を張られてそれでお終いでした。
とにかく彼は、おれを監視することにのみ関心があるようでした。
まるで悪夢でした。
彼がいるときには暴力と過ぎる快楽の恐怖に耐え、
いないならいないで、反芻されるそれに震えていなければなりませんでした。
女性の小間使いが、暴力や、行為によって生じた傷(とても、口には出せないような部分に至るまで)を治療する羞恥に
いつのまにか慣れていた自分に情けなくなりました。
果てのない地獄のような日々に、心身ともに疲れ果て
まるでひたすらに螺旋階段をのぼっているようなおぞましい感覚でした。
凪いでいた人生が大波に浚われ
おれの世界のすべては彼で塗り替えられました。
おれは確かに彼を憎んで、呪って、嫌って、
しかし彼へ渦巻く思いは、そんな生易しい言葉では説明がつかないのです。
暴力に怯えて、行為に咽び、それでも
彼に引き寄せられたあの日と同じに
おれの心は冷たく燃える瞳にとらわれたままで
どうにも抗えぬ呪縛に苦しんでいました。
三年たち、五年たち、十年たち、彼の父が病気で亡くなり、
彼はいまや大きな組織の頂点に立ち多忙な日々を送っていました。
三年たち、五年たち、十年たち、それでも屋敷での日々は繰り返され
彼の呪縛はいっそ首を絞めんばかりに、より強固なものになっていました。
大きな組織、というのは、とにかく、方々から妬みや恨みを買っていました。
ある日、彼の車は、ブレーキがきかなくなりました。
雨の降りしきる、視界の悪い海沿いの道。
午後、四時七分、
おれの世界の、支配者が、死にました
養子であるおれはもちろん、葬儀にも声がかかり
(参列者の中には不躾な視線でおれを卑下する者もいましたが)
おれは悲しみに暮れる遺族を演じながら、ようやく彼の呪縛から解放されることを、喜んでさえいました。
本当に、喜ばしいことだと思っていました。
昨日殴られた傷が癒えていくようでした。
その夜、ごく近しい親族と幹部のみ集められ、彼の遺言状を弁護士が開封しました。
傲慢で、自分が死ぬなどとこれっぽちも考えていなかったようである彼なのに、
遺言などが存在することにおれは驚きを隠しえませんでした。
おれには関係のないものだとしても。
だのに、
読み上げられた内容、
内容が、まさか。
義務的な弁護士の声はやけによく通り、耳を焼きました。
「遺言者赤西仁は、以下のとおり遺言する。
第一条、遺言者は、その所有する次に掲げる不動産を含む一切の財産を、
遺言者の長男、赤西和也に相続させる。
一、所在○○市○○町○丁目、地番○○番、地目宅地、地積○平方メートル、
二、所在○○市○○町○○番地・・・
三、○○銀行の遺言者名義の預金全部・・・」
最後に執行者である自らの名を言い連ね、終わりを迎えました。
もちろん、彼個人のものではない、組織のものは全て、
後継者として名前のあがっていた幹部の誰それが相続しました。
けれど、けれど、
ヤマシタと名乗った訳知り顔の弁護士が、
「すごいラブレターでしたねえ」
と、微笑みました。
ラブレターと呼ぶにはいささか不出来な、
甘い言葉も、なにも、ない、義務的な文字の羅列。
でも、でも。
彼の生きてきた全てを、家財に至るまで全て、おれへ。
涙が出ました。
何がなんだか、もう何もわからないけれど、涙が出ます。
おれの世界の支配者は、死んでなお
おれの心を鷲掴んで
離してはくれないのです。
おれは譲り受けた遺言書をにぎりしめて
ひたすらに泣いて
頬の傷が塩分に染みてぴりぴりしました。
受けた傷がいつまでも癒えなければ良いと
そのときはじめて、思いました。
こんな暗い話も書きますすみません・・・
遺言がラブレターってのに憧れて変な方向に行ってしまった
いつかJ氏サイドのエロ悲しい(新ジャンル)番外話も書きたいです