聖母マリアの憂鬱





そのとき、ロロノア・ゾロは齢十九にして初めて、信仰だとか宗教観などというようなもの、その片鱗に触れたような気がした。



神に祈ったことはない。
幼馴染との別離のときにも、幼いながらに祈ってどうにかなるもんでもないと理解していた。
またいつぞや、激しい戦闘ののち、自分の流した血の中に伏してこのまま死ぬかとも思ったときも、そばにあった教会から見下ろす聖母マリア、だがゾロはなんの感慨もわかず、結局は自身の断固たる意志こそがその両足を鞭打った。
血と野望とまっさらな背中で構成されうるゾロの人生において、信用のおけない偶像には用がなかった。

だから、今回のことは結構な衝撃だった。
 


目下メリー号には、悪魔が二人ばかり乗っている。
片方は女で、金に目がないずぶずぶの本物だ、そしてもう一方はそいつに使役されて喜ぶとてつもない女好きのアホ、だが用がなくても諍いの種を運んでくるというその点においては、これが本当に厄介な存在だった。
ゾロは基本的に、鍛錬だとか便所にいくとか摂食および週に一度の風呂、それ以外はとにかく寝て過ごしたい人種である。
文字通り、雨が降ろうと槍が降ろうと、だ。
実際、害にもならぬと判断され、寝て過ごすだけの剣士の存在は放置されていたのだ。…二人目の悪魔が乗り込んでくるまでは。
新参者の悪魔はことあるごとにゾロを構い倒す。
メシの時間だ起きろ踏み砕くぞ、そんなのは序の口で、風呂に入れ臭い汚い死ね、寝腐れてないでたまには働け穀潰し野郎、果ては、緑色の分際で光合成の一つもしねえなんてクソの役にも立たねえなアホマリモ、ときた。
温厚なゾロをして、死闘に至るのはそりゃあ当然というものだ。



ところが先だって、売り言葉に買い言葉というやつで、「もう金輪際、てめえの料理なんか食わねえ、だから好きに寝させろ」とコックに対し口走ったときのことだ。
夕暮れ時だった。
どうしてそう覚えているかというと、皮肉にもそのコックの作った夕食の美味そうなにおいが、甲板中に漂っていたからだ。
口惜しくも調教された胃袋は、世界が夜へと反転する一歩手前、どでかい太陽が水平線を舐める夕刻にこそ、そのにおいの漂うことを知っていた。
金髪が夕日を吸って、まるであの女悪魔みたいな色合いだった。

コックは笑った。
軽い頭に乗っかる、上等な橙色が、ふわりと揺れた。

悪魔は、悪魔と思い込んでいたその男は、その背に夕日を負い、口元にも小さな夕日を灯して、それからふうと煙を吐いた。

「そうか。食ってもらえないってのは、困ったな」

死ぬほどの罵声が返ってくると信じていたから、らしくもないゆったりした声音に、それこそ死ぬほど驚いた。
驚きすぎて、手にしていたダンベルを取り落とし、甲板には派手に傷がつく。

そうして二つのことを、ゾロは思った。
一つ、おれはまちがえた。何をか分からないが、何かをとてもひどく間違えてしまった。
二つ、困ったと笑うこの男、悪魔などではない、

いつぞやの血だまりで見た、マリア像、まさしくそれだ。



ロロノア・ゾロは、それ以来、その不思議な金髪コックからなんとなく目が離せないでいる。
気まずさは拭えず、食事の時間には呼ばれる前に着席し、食い終えた食器を水につけることまでするようになった。そうしたらコックが「罪滅ぼしのつもりかァ?」といつものごとく軽口をたたいた。
ところがその眉尻が本当に困ったように下がっていて、それを見たらどうにも心臓のらへんがもやもやして、悪態をつくこともままならず、ごちそうさん、と言うしかないのだ。
するとコックは嬉しいような複雑なような、そんな顔をする、そんな顔しやがるのだ、そしてやはりそれを見るたび、何か分からないが切羽詰ったようになりまた鍛錬に打ち込む、その繰り返しの毎日だ。
我ながら修行が足りないと思っていた。

ある日のこと、正確にはダンベル取り落とし事件から一週間後のことだ、コックが一服すると言い残し男部屋を出た。
いつものことなので別段気にも留めなかった、ただゾロも用を足したかったので、後を追うような形で部屋を出たのだ。
そうしたら。
件のクソコックは、さめざめと泣いていた。
格納庫の外で、気配だけでそれを察知したとき、ゾロは立ち尽くすしかなった。
なにがこの小生意気な男をこうまで脆くさせているのか、ゾロには皆目見当もつかなかったが、あのときのマリア像のもの悲しさが鮮明によみがえる。
泣くな、と、壁一枚たたっ斬って説教すればそれで済むか、そんな話でもないような気がした。
結果、その後二週間、ゾロはコックが格納庫に入るとなんとなしそれを追い、壁を隔てた外側に居座り、ただただ悶々とすることになったのだった。



海は、墨汁を流したようにただ黒く昏い。新月だった。メリー号のほうにはそれと見紛うばかりにきんきらの金髪頭がいたが、そちらの月も格納庫に姿を隠している。
ストーカーもかくや、格納庫の壁に張り付いて二週間目のその日。ゾロはふと、内側の気配の変化を察知する。呼吸とやらを会得していて、よかったのやらどうやら、などと考えつつ、変化の具合を探る。
はっとする。ドアの向こうから、諦念が薫る。何を諦めたのか。何に愛想を尽かしたのか?
考えるのは元来得意ではない。
妙に焦った気分になり、とうとうドアノブに手をかける。二週間分の緊張がてのひらに張り付く。
と、視界に飛び込むのは、コックが半分恍惚のような表情で、指を焼こうとする衝撃映像だ。
驚いた。
手を怪我したくないがため、蹴り技をああまで極めた男が、自ら何をしようとしているのか。
一も二もなく、理由の如何を問うつもりもない、ゾロはすぐさま制止にかかる。

「やめろ」

涙を湛えたまま一つ灯に照らされるコックは、どこか映画のワンシーンのように美しく、見とれかけていた事実を自覚するゾロだが、それよりも憤りの方がはるかにでかかった。
水でもぶっかけて頭を冷やしてやりたい。
こいつが、コックが、…ゾロをして食に対する冒涜への後悔の念を抱かせた、食の探究者たるこの男が、自ら指を損ねていいはずがない。
どうしてそんな、朴念仁たるゾロでさえ分かるようなことを、コック本人が忘れてしまうのか。
腹立たしいといったらない、それをそのまま視線でコックにぶつける。
「ゾ、」
コックは弾かれたように顔を上げた。
自分の名を乗せて震える唇を、呆けたように自分を見上げる正直者の右目を、一つ灯に照らされた稲穂色の髪を、強烈に掌中に収めたくなって、
それでようやくゾロは気づいた。
鉄の呼吸が理解できたときの、あの感覚にも似た、原始的なひらめきにびりびりする。

この、口汚いマリア像を、自分は乞うているのだと。

恋とか愛とか、そういうものに近しい感情を、自分も持ち得ているのだと。
それは彼にとって、自分史上最大の発見といっても過言ではない驚きであった。



しかし、その驚嘆に浸る間もなく、不可思議な闖入者にゾロの殺気は研ぎ澄まされる。
「てめえの知り合いか」
喜ぶように、または共鳴するように鬼徹は唸る、和同一文字は危険を察知し頑なにそちらへ行くなと鞘を震わせる。
目の前の男が、蒼白な顔をして呟く、


「マリアちゃん…?」

マリア。
と、コックの唇が述べたことに、違和感がないのが違和感であるといおうか、…自分のことを言ったのだろうかと鳥肌の立つようなことを思いつき、心底自分が気色悪くなった。
よくよく聞いてみれば、マリアというのは目の前のバケモノ然とした女のことらしく、過去になんらかのつながりがあるらしい。
つい先ほど自覚した慕情のために、コックの女関係についてなんとなし快く思えずにいる、本当に修行が足りない。
鬼徹を宥める。和同一文字が震える。



すったもんだあって、さァいよいよ戦闘かと身構えたそのときに、ゾロの肉体と魂が切り離された。
本当に、そうとしか言えないような感覚だったのだ。
忌々しい化け物女の術中に嵌り、辺り一面覆い尽くす闇に舌打ちしながらも、確かにコックの腕を掴みとったと思ったのに。

突然なにもわからなくなった。
ここがどこかも。
自分が誰かも、何をすべきなのかも。

気づけばゾロは、広い広い草原を、ただ一人歩いていた。歩くという行為は理解できた。
ゾロは、頭上の明るい太陽を見上げた。見るという行為も理解できた。
草原と太陽のほかには何もなかった。
ふと、声が聞こえた。女の声だと思った。ゾロはようやく、それが自分のものとあまりに違うので、自分は男であるのだと性別を思い出す。

「ゾロ」

と呼ばれた。そうして、自分の名を、そこで初めて思い出した。
おまえはだれだ、と聞いた。
ゾロのそばにいつもいる者だ、とその声が答えた。
そうか、と思ってそこで、傍らに携えた刀と、金髪コックを思い出した。

「コックか」

と尋ね返した。声の気配が少々曇る。
「…あんたのコックさんは男でしょ!ほんとバカ」
「じゃあ、」
(女性の複雑な心の機微が読み取れるわけもないゾロは、ためらいなく「じゃあ、」と言った)
「コックじゃねェんなら、くいなか」
「…私のことも覚えいてくださってどうも」
皮肉たっぷり、呆れ果てたようにして、なんだか半ば悟りきったようにして、少女はそこに佇んだ。
「それにしても、あんたの心象風景ってほんとに単純!
 草原に太陽だけって…。はは、ねえ草原ってなに、擬態?私を笑わせようとしてんの?」
何が何だか分からないので、なんのことだ、と尋ねると、少女は余計に笑った。
足元の雑草やら雑花やら、一片の興味も持たないようにして踏みしめ、大口を開けて笑う、そのデリカシーのなさはやはり懐かしき女傑であった。
「ゾロ、あのね。私が、悪いおばけにならなかったのは、ゾロのおかげだよ。
 この世に未練たらたらだったけどさ、ゾロが代わりにもっと血なまぐさいことしてたから拍子抜けしたわけ。
 守護霊ってのも気恥ずかしいけど、悪霊に比べれば刀に憑依してるほうがいくらもマシでしょ?
 私これでもけっこう、鬼徹の奴とも仲良しになってきてんだから。」
「ほぉ」
珍しく素直に話を聞きながら、ゾロはくいなの死と、自身の野望を思い出した。
彼女はあのときのまま、ゾロの半分ほどの背丈でそこにいた。
「おばけ、ねえ」
「…良いおばけでいさせてくれるお礼に、一つだけ教えてあげるよ。
 ずるじゃないよ、あっちも十分ずるいから、おあいこだよね。
 いい、あんたのなまくらな脳みそでも、しっかり覚えて帰るんだよ、…」
ゾロは幼馴染から、忌々しい悪魔の、その夫の存在について知らされた。
なぜ彼女がそれについて詳しく知っていて、今このように再会しそれを知らせてくれるのかなど、ゾロには些末なことだったので、情報に対し、ただありがとうとだけ言っておいた。
そうして、ゴーイングメリー号のことを、仲間を、自分たちの窮地をも思い出した。
太陽が沈みかけていた。頬に受けていた心地よい風が、だんだんと強まってきた。草原はごうごうとうねった。

「ゾロ!コックさんのこと、……」

最後に忠告、といわんばかり、くいなが叫んだ。
強風がもたらす轟音で、もうほとんど、くいなの声はゾロの耳に届かなかった。
だから、言われねェでも分かってる、とだけ、大声で返しておいた。
くいなは満足したように微笑んだ。
とたん、草が割れた。風はそこへ吹き戻されていて、草花はもちろん、なんと沈みかけていた太陽までもがそこに飲み込まれた。
ゾロの身体ももちろん、容赦のない突風に抗うすべなく飲み込まれていった。もう少女の姿はどこにもなかった。
コックとのことについて、幼馴染に忠言されるというのはおそろしく気恥ずかしいと、それは今初めて知ったゾロだった。



ゾロはにぶく覚醒する。
なにかに頭を抱え込まれている。物心のつくかつかないかの頃、母親にいだかれたときのような心地よさだった。
その腕はこの上なく慈悲深く優しかった。ゾロの、斬り捨てるばかりの腕とは違う、なにかを生み出す腕だと思った。
腕の持ち主は、小刻みに震えながら、頭上からゾロの名を呼ぶ。
たまらなかった。
さっき食ったばかりの夕飯と、煙草の残り香を纏わせるその腕の主は。
名を呼んだだけでゾロをこんなにも、たまらない気持ちにさせる。
くいなとの約束が増えた。右手を、和同一文字にゆっくりとかける。
そうして左手は、約束の対象物へと。

これを、泣かせないと、決めた。

「ばかにするな」

痺れたような唇に辟易しながらも、なんとか動かす。
耳に入った内容の腹立たしさといったらなかったが、自分にしては、存外優しいような声が出たのではないだろうかとゾロは満足する。
言いたいことをぶちまける。
「てめェはいつもそれだな。
 それを、おれが、おれたちが、喜ぶと思ってやがる。
 言っとくがおれァ、ジコギセイとやらでてめェがおっ死んだら、一生許さねえぞ」
言いながら、なるほど自分はこのように思っていたのか、だからこいつとケンカばかり、だけれど気になって仕方なくて、ああそうか、と納得するような始末。
納得したら、とたんに状況も顧みず、この男を掌中に収めたくて仕方なくなった。
やりかたを、ゾロは一つしか思いつかなかったので、とりあえずその口に噛みついておいた。コックが目を白黒させるのがおかしいったらない。
商売女のふくよかな唇とはまったく違った。
コックのそれは、緊張からかとてもかさついていたし、煙草の味はするし、血は出るし、…しかしこんなにもゾロの口の形に添う人間は、今まで一人としていなかった。
思い出したようにしてゾロが、存在も忘れかけていた女のバケモノへと向き直ったとき、
今なら、自分がなんでもできるような気がしていた。
先ほどと体勢を逆転し、自身の腕の中、呆けたような表情で自分を見上げ、血を涎で薄めて口の端からこぼすコックが、ただ愛おしかった。



化け物女の鼻先に、くいなから仕入れた情報と刀とを突き付けてやったときといったら、本当に見ものだった。
澄ました顔がもろく崩れ、目をひん剥いて怒鳴りだした。百年の恋も冷めようその表情に、それでも同情を深めるコックにいささか呆れる。
「いいから連れていけ。おれが決める。斬れるかどうか、殺せるかどうか、おれが試す。
 おれ一人でやれねえってのなら、これがいる」
コックは状況も飲み込めないだろうに、一丁前に力強く頷いた。
ゾロに与えられた噛み傷をたたえたまま、その口は笑みを作る。
ゾロの腕をあっさりと抜け出し、底の浅い化け物女を救済しようと手を差し伸べる。
いつ見ても、背筋の美しい男だと思う。
「マリアちゃん、よくわからないけど、君がそうなっちゃったのには理由があるんだね。
 おれたちでどうにかできるかもしれねェなら、それに賭けてみちゃァくれないか」
差しのべられた料理人の手が、陶磁の茶碗のようだった女の白い手を、触れたそばから温かく染めていく。
コックは気づいちゃいないだろうが、化け物女の戸惑いと歓喜が、ゾロには文字通り手に取るように分かる。
この男は本当に、与える男なのだ。善いも悪いもなく。
「おれらがそろって壊せねえもんなら、
 そんときゃ、心臓といわず目といわず、
 二人まとめて窯の底とやらへ連れていけ」
女はたっぷりと逡巡してから頷いた。突き付けた和同一文字が震えた。“彼女”も化け物女の覚悟を悟ったらしい。
しかしもって、こんなときでさえ、ゾロは楽しい。
どんな強い敵が現れるのか、コックとどう共闘しようかと、楽しくて仕方ない。
いよいよ扉が開く。

「…私の夫は、ここに、いる」

はよしろと急かしたい気分でさえあったが、それは五秒後に猛烈な怒りへと変化した。



幼馴染の見た目をしたなにかが、気味の悪い声で喋る。
悪魔の親玉は、やはり糞野郎でしかなかった。過去への冒涜は、ゾロにとって相当に気分の悪いものだった。
隣でコックも激昂している。どうやらこの男も、同じように悪魔が過去の恩人に見えているらしかった。
「趣味の悪ィ…!人の頭ン中のぞいてんじゃねェぞクソ悪魔!」
「…まったくだ。ところでテメエ、そのクソジジィとやら、蹴り倒せるんだろうな?」
「てめえこそ、麗しき初恋のくいなちゃんを斬る覚悟があんのか」
当然、と視線だけで返す、本当の幼馴染はなんたって、ゾロの刀の中にいるのだから。

「ほぉぅら、どうした。
 動けぬか?
 お前たちの心の、幼気な幼気な、かわいいかわいい記憶をかたどったまで。
 そこが人間の、根源だからね。そこを痛めつけられると、人間は生きていかれないものだ。
 なんと哀れだろうね。
 マリア、このようなものどもを、ようもここまで連れてきたものだ。なんとも味気ない!」

さても、腹立ちがメーターを振り切り、この無礼な悪魔を縦に斬ろうか横に斬ろうか思案する。
そうして相手に噛みつくための助走をしかけたそのとき、

「そうかしら。」

捻り潰されそうなか細い声だったが、女の覚悟が滲んでいた。
「…サンジちゃんは私が出会ぁった中で、いち番の美しいひとだわ。
 そぉうして、そちらのごろつきさんは、そぉんなサンジちゃんが愛した、たぁったひとりよ」
コックは激しく感動したような顔をして、ほとんど泣いているような声音でもって、
ありがとう、君こそほんとうに、聖女だ、と女に告げた。
辺り一面の、変わらぬ闇の中に、コックの金髪が輝く。
光だ、と思った。
ゾロにとって、それこそが道しるべに思えた。仕舞い込んだ和同一文字の柄を、そうっと撫ぜた。
ほとんどあてられたような形で、思ったままを、口にする。

「マリアは、おまえだ」

言ったそばから照れくさいが。これ以上ない真実だった。
何か言ったかとでも言わんばかり、コックがこちらへ視線を寄越したので、さて行くぞと促す。
すると柔らに笑う。なんとなし納得したように、「ああ」と傾げた小首が赤らんでいて、なんとも愛おしい。
これを失わずに済むよう、なんとしても敵に打ち勝たなければならなかった。
正体の知れぬ相手めがけ、駆けだしたのは、同時だった。



相手は人間ではない、という化け物女の言葉が、ひしひしと実感される。
ここまで勝ち得る見込みのない敵というものに遭遇するのは、久しかった。
大蛇たる悪魔は、強いというよりも、底がなかった。
辺りも攻略方法も闇の中だが、ゾロはゾロなりに思案する。
試しにわざと、女へと流れるように攻撃を弾いてみた。
悪魔からほんの少し、余裕が削がれた。それと分からぬようにではあるが、悪魔はこの女をたいせつにしているようだった。
一応は妻であると思っているのか、それとも。
試しにもう一撃、それで確信に近づいた。
この女こそがおそらく、底なし沼のようないきものの命運を握っているのではないか?
ではもう一撃、と考えたところで、誰あろうコックが、静かに女の前に立ちはだかった。
ひどくさりげない仕草で、ゾロを牽制している。
「…コック。気づいてるか」
これも頭のまわる男だったと思い至る。
その思案気な横顔にゆったりと汗が伝った。
「言うな。他の方法だ。
 賭けてくれと…、マリアちゃんを救けると、おれは彼女に確かに言った。
 あれを嘘にはできねえ」
顎をつうと舐めて、汗のしずくはそのまま、シャツの襟元へ滴る。襟はそこだけ色を濃くした。
同様の染みはいくつもそこにあって、ゾロはこんなときだのにそこから目が離せなくなる。
煩悩を振り切るように悪魔の尾を力技で斬り落とし、気づかれぬようそっとため息をつく。
「…そうかよ。まァてめえは、あの女と…いやどの女でも、女とおれとを天秤にかけたところで、
 ぜってェに女を選ぶんだろうな」
言いながら気づく。
そうなのだ。こういう男で、だからゾロは腹が立つし、憎たらしいし、自分とあまりに違っていてわけが分からないことが大半で、
…けれどだからこそ強烈に惹かれる。
「…っんでそんな嬉しそうなんだよ」
「いいや?…鼻持ちならねェと思ってたてめえの騎士道とやらだが、まあ…

 それでこそてめェかと、今はそう思っただけだ」

この男のアイデンティティとかそういう部分まで、いったいいつから自分はきちんと認めていて、
それすら愛おしいと感じるようになっていたのだろうかと感慨深く思う。
(そんなことを考えたことそのものが、二秒後、冗談のように恥ずかしく感じられ首筋が焼け焦げそうになったが)
悪くねえ、と誤魔化すようにそっぽを向けば、コックが呟く。
「ゾロ」
「ああ?」
「…あいつ仕留めたら、なんでも好きなもん、作って食わせてやる」
「上等!」
ゾロとケンカしたり、ナミに賛辞を贈ったり、ほかの船員をたしなめたりするのとは違う、吐き出される紫煙と同じ温度をしたこの低い声が、ゾロはとても好きだった。
その声に鬼徹を寄越せと言われれば、猛獣使いに操られる猛獣さながら、ゾロの右腕は素直に鬼徹をコックへと添わせた。
油がぶちまけられ、煙草の火が種になる。

「ようく燃えろよォ、ダーリン」

噛んだ煙草を揺らして笑う、鬼徹の柄をさらりと撫ぜ、そんな気障ったらしい台詞をよくもまあぬけぬけと。
「…んだそりゃ気障コック」
眉根をひそめるも、そのアホな囁きを吸った鼓膜から、ゾロ自身も発火しそうな気分だった。
それにしても、鬼徹はまるで、もとからそのためにあるようにしてよく燃えた。
刹那、確かにゾロは鬼徹の嗤い声を聴いた。
自身にまとう炎の熱を大いに喜び、いざ強敵を嬲らんと喜びに震えているのが分かる、妖刀に同調しそうになるのを歯を食いしばって押しとどめる。

「ぶちかませ!」

コックの声に弾かれて、ゾロは跳躍する。
ねじ伏せた鬼徹の狂喜を、そのまま力に換えて、悪魔の尾をありったけ抉ったのだった。



ゾロはこのやり方でも悪魔が死なないことを知っていた。
くいながそう言っていたのだから、それはそうなのだろうと思ったのだ。
だから、ただ待った。鬼と言われようが非道と詰られようが、女の覚悟を待つしかなかった。
女は一度だけ、ゾロに目配せした。そのあと女は、すべての慈しみをコックへと寄せた。
自分を壊させて、悪魔を打ち砕くという、コックの言うところの神か天使かというような仕事をやってのけた。
紳士を気取る優男は、かわいそうなくらいに震えながら、化け物女の中に腕を伸ばす。(そこに核とやらがあると、女は誇らしげにコックを誘い込んだ。少なくともゾロにはそう見えた。)
ソレを後ろから抱え込んでやると、女とまともに目があった。あなたに、私を探る許可は出していないけれど、とでも言わんばかりだ。
ゾロは、許せよ、と女には形ばかり呟いておいて、
ほとんど展開についていけずにいるコックを抱く腕にこそ、力を入れる。
「ゾ、ゾロ」
コックは顔面蒼白で、尋常ではない冷や汗に首筋を冷たくしていた。
「いるぞ」
指先ももちろん震えていて、暖めてやらんとそこを握ってやろうとしたら、何ものかにコツリと当たった。女が途端に苦しそうにしたので、それこそが核だと理解する。
「っ、ぞろ…!」
いつでも不敵におれの隣に並び立つこの男から、こんな悲壮な声を聞くことになるとは。
腹の奥のあたりが痛くなる。
「…大丈夫だ。おれのせいにしとけ」
だって、それを掴むのはゾロだ。それは、ゾロの殺意だ。おまえのせいじゃないと、哀れに震える背中に、そう伝えてやりたかった。
つい二時間前には自分たちを陥れんとしていた女が、今は幼子をあやす姉のように、背負うだの後悔がどうだのコックに諭している。
後ろでは鬼徹に縛られたまま、悪魔ががなり立てる。

「…つーか背負わせるってなんだてめェ。おれァ悪ぃが、女が一人死んだところでどうでもねえ。

 これが泣く方がよっぽど堪える」

金髪越しに、思いのたけ睨んでやったつもりだったのに、相手は本当におかしそうに笑った。
自らの死の間際に屈託なく笑うから、はじめてゾロは、コックは女の趣味が良いのかもしれないと思えた。
腕を引き抜く、悪魔は泡を食って絶叫する、
さても、核とやらはあっさりと、コックの掌に転がった。



呪縛の解けた蛇の、重い一撃を嬉々として受け止めつつ、ゾロは想い人を見た。
感傷にひたるな、早く壊せ、もうもたないと急かしてやったところで、男の表情はすっと抜けた。

それはもう見事だった。

コックはいつでも脂下がっているかわめいているか、笑っているか泣いているかで、とにかく表情の豊かな男だったので、無表情である状態をゾロは初めて見たのだ。
高級な人形のようだ、とゾロをして思った。
きれいだった。背筋がうすら寒くなるほどにきれいだった。
その人形は、自らの左足のとんでもない威力でもって、化け物女の不幸を踏み砕いた。
凄まじい光景だった。
スーツに覆われた脚が、真っ赤に燃え上がっている。
燃え盛る炎を受けて、金色があの日のような橙に染まりゆらめいた。
足先からこの男自身も悪魔になってしまいやしないかと、ゾロが凝視しているのも知らず、コックは変わらず澄ました顔で、闇をも踏み抜いている。
これまで対峙したどの敵より、経験したどんな脅威よりも、今この男こそがゾロにはおそろしく感じた。

女はすでにこと切れている。どこか満足そうにも見える。
悪魔は無様な断末魔とともに、永遠に闇に帰る。鬼徹を収め直す。
コックはめそめそと泣いている。(表情が戻ったと同時に、炎は嘘のように立ち消えていた)まったく、抱きつぶしてやりたいとさえ思う。
地獄の窯の、蓋が開く。

「弱たれコックめ」

突き上げるような風に引き離されないよう、コックをひたすら左腕に括りつけ、
ゾロだってなんだか泣いてやりたい気分だった。
…やりかたをとうに忘れていて、本当によかった。



ぼやけた視界に、ルフィが蹴り破った投網が見える。ウソップが途中で作るのをやめた武器らしきものも。
ナミの指示で購入した大型の浮き輪に、チョッパーが持ち込んだ医学雑誌の束。
まぎれもない、格納庫だった。
ゾロは思わず跳ね起きた。
狭い格納庫を、電灯があかあかと照らしていた。密度の濃い闇に慣れていた目が、思わず眩んだが。
まずは、腕の中にいたコックの足を、まじまじ五分は検分した。
ああも燃えていたのだ。どんなひどいことになっているだろうとゾロは危惧した。
だが不思議なことに、火傷の痕一つ残ってはいなかった。ましてやスラックスの裾にすら、焦げ跡も見当たらない。
ゾロは思わず、はぁと人心地ついた。ゾロにだって安心だとかそういう、人間らしい感情も(人より少ないが)持ち合わせはある。
安堵したら自然と、その体を抱き込んでいた。
生きている。自分も、この男も生きて戻ってきたのだ。抱く腕にますます力が入る。
そこで、金髪がぴくりと揺れた。
ゾロ、と寝ぼけたような声で名を呼ばれ、もうそれでだめだった。

「てめェがどんだけ、ここで泣いたのかしらねえが。今日の、さっきの女ので最後にしろ」
「…え、」
「てめェ、言ったろ。アレが片付いたら、なんでも好きなもん食わせてやるって。
 だから、食わせろ。」
「は、」
「てめェのヒヨコ頭にも分かるように言うか?
 いいか、…今からおまえをぞんぶんに食うぞ、死ぬなよ。仁王と言われたからにゃ、相応のやり方してやらんとな」
「え、え?おま、え、なにを…」

「片思いとやらは、今日で終いにしろ、クソコック」