とおくにありて












親父はおれの手を引いて、

いざ一旗あげんと

越後の田舎から寒い隣国へやってきた。


満州では満州人が家畜のような扱いを受ける。

よそ者の日本人が家人のごとく振る舞う。

おかしなことだと思った。

それに異をとなえると口を縫われてしまうから、

親父はおれの幼い正義感に釘を刺した。


満州の冬は寒い。

痺れるほどに寒い。

寒すぎて、雪は降ってこずに、そこらをただただ舞うのだ。

さらさらごうごうと駆けずり回る足音の主は、おれたちの喉元を狙って

凍る刃をいつでも振りかざしている。

氷点下40ド、と大人が口にした。

それがどれほどのものか理解できなかったが、たびたび道端に転がる凍死体がその恐ろしさを物語る。



おれと同じような境遇の子どもが、

あふれるほどにいた。

けして楽な暮らしではないが、だからこそこの地へきているのだが、

それでもここでは、日本人はすべからく殿様であった。

親がそうするから、子どもたちも無遠慮に満州人を罵倒し、物を投げる。

おれはどうしたって、

姿かたちそっくりの人間どうし、そんなことに加わる気にはなれず

こっそりと、傷ついた彼らに食べ物や傷の薬を渡した。

彼らはへりくだって、流暢な現地の言葉と拙い日本語で礼を言い、

しかしその後こっそりと施しを叩き捨てているのを見た。

傷つき、飢えているだろうに。

彼らの胸には矜持が生きている。


ある日、日本人の子どもであるのに

他の子どもから疎外されている幼子を見つけた。

どうしたと声をかけると、弾かれたように顔をあげる。すぐになるほど、と思う。

勇猛を尊ぶ日本男子において、彼は驚くほど中性的ではかなげな顔だちだった。

聞けば彼はおれの三つ年下だった。

なにかぶつけられたのだろう、こぼれるほどに大きな瞳のすぐ横が赤く腫れていた。

冷やしなさい、だなんて勿体ぶって、汚れた手拭いを濡らした。

ここはいつでも冷えてる、と生意気に返したその子どもは、

それでも厚意に敏感で、嬉しそうに笑った。

手拭いの刺繍に、仁、と縫われてあるのを見つけて、

変わった名だなとはしゃぎ、

じゃあ、と自分のものも差し出す。

小さな手のひらに握られたそれには、和也、と示してあった。


「かずなり、じゃない、かずや、か?いい名前だ」

「じゃそれ、やるよ。おれはこの、きったねえこれ、もらっとく」

「あ、言ったなこいつ!」

「はは、だって、きったねえじゃんか、」



仲良くなるのに時間はかからず、

子どもの集団では年長の部類に入るおれがそばについていれば

和也は不当に扱われることもなくなった。

寒いなりに遊びは豊富で

二人でやんちゃをしては笑いあい、

凍える満州を庭にして、転げまわって。

麻痺しそうになる価値観だとか正義だとか

二人で支えあって正常であろうとするおれたちは

このまま大人になるような錯覚を覚えた。

この寒さが日本人の持ち物でないことに、

幼すぎて気づいていなかった。


終わりは唐突にやってきた。

日本の敗北も、天皇さまが人間になるのも、引き揚げも、瞬きの間だった。

和也はうつむいて、泣いていた。

何をされても泣いたところを見たことがなかったから、

思いがけぬ衝撃だった。

そうだ、彼はおれの三つも年下なのだとあらためて思う。

その手には、

母親にでも頼んだのだろう、洗濯をし、火熨斗をかけてきれいにたたまれた

あの日のおれの手拭いが、あった。



「じん、じん、あのとき、声をかけてくれて有難う。

 ・・・これ、大切にもってく」


あまりに泣くから、それ使いな、と伝えて

・・おれも泣いた。










そんなやりとりが、十五年たっても忘れられずにいる。

親父は日本で死に、おれは日本で働きに働いてそれなりの暮らしをしている。

多くの部下に恵まれ、日本を支えると持て囃されるような会社を興した。

経営が軌道に乗れば乗るほど、思い起こすのは彼のこと。


名字も素性も知らぬまま別れ別れとなった。

幼かったのだ。

せめて姓くらい知っていれば、探しようもあったものを。


暖かい部屋、柔らかな安楽椅子をくるりと回せば、

寒く冷たく硬く、何もないが和也があったあの日を思い出す。

あの日の薄汚れた大切な思い出は、清潔なハンケチに何重にも包まれて、

今も引出しの一番上に御守り代わりに眠る。

秘書にお捨てくださいそのような汚らしい、と言われるたびに、

莫迦者、と笑うのだ。


近頃とみに、あの国で親父がよく口ずさんだ

詩の一編が浮かぶようになった。


故郷は、遠くにありて思ふもの、


親父は生まれた日本を懐かしんで、これを好んだのだろう。

だがおれにとっての故郷は、紛うことなく満州でのあの日々だ。

和也という名が代名詞となる。


そして哀しく詠うもの、と続けて


やはりおれはあの日々に囚われつづけていると自覚する。

クソ、と最近手に入れた、テレビのつまみを秘書に回させ、

時勢の報道に耳だけを傾けて、わずかな惰眠を貪るのだ。





秘書が、くすりと笑うのが聞こえた。


「社長、ご起床を。

 今日は私の後を頼む若者との、面談をお願いしたはずですよ」

「あ、ああ、そうか」


秘書は寄る年波に病を患い、

定年を待たずして辞意を伝えていた。

後釜は、おれより三つも下の青年であるとのこと。

有能ですからご安心を、と髪に白いものの混じりはじめたこの男は言う。

全幅の信頼をおく彼がそうまで言うなら、心配はないのだろう。


「おはいり、亀梨君」


秘書はにこにこと、扉の向こうへ声をかけた。

ぎ、と木製の扉が、質量を伴って開かれた。

わが社に新しい風を送り込むであろう、将来有望な若者は

清潔な背広に髪型で、深い礼ののち入室する。

扉向こうからの逆光で、顔がよく見えない。

手に何か、しろいものを持っているような。

ようやく、扉が閉まると、彼の輪郭がはっきりする。



「亀梨和也と申します」



おれの時は止まる。

彼は泣きながら微笑んでいた。


ああ

 ああ。





それ使いな、と

震える唇で声にすると

いよいよ彼は泣いて、泣いて




辛抱たまらず 細い肩を抱きしめた。