トラが辿りついたのは、無人の荒れ家だった。

とにもかくにも空腹で、とにもかくにも眠かった。

トラは、名をゾロという。

誰に名付けられたかもわからない、物心がついたときには幼い牙と短い爪と、その名前だけを携えていた、

そしてひとりだった。

以来、襲われたり死にかけたりは日常茶飯事、しかし返り討つそのたびに牙は研がれ、爪は頑丈になり、名は森中にとどろいた。

とどろきすぎて、獲物はトラを恐れて森から這い出た、つまりトラの食料は著しく減ったわけで。

結果トラはこのような有様だ。


「腹が減った」


言ってどうしようもないことは知っていた。

廃屋が、うんともすんとも返事をするわけはない。

トラは、ひとり。


「腹が、減った」


泣きたいような気持だったけれども、トラはとうに泣くやりかたを忘れていた。

びゅうびゅう隙間風が吹く。

今夜は嵐だ、とぼんやり思ったが、すぐにその百倍くらいの「腹が減った!」に押し潰され、嵐がどうの、どうでもよいこととなる。

風の音に雨のそれが混じる、トラはついには聞こえないふりだ。

眠るしかなかったトラは、のったりと廃屋の片隅に身を横たえ、肉厚な瞼で右目を覆った。(いつぞやの傷で、トラは片目しか開かない)


…嵐がやってきた。







「あれ、トラだ」

「トラだな」

「…ここに入って来るなんてなぁ、図太い奴だ」


騒々しさに、トラは開く方の瞼を重々しく持ち上げた。

どうやらまだ死んでいないらしい、そう思い至る。

黄色い雨合羽がひとつ、透明な合羽がひとつ、傘をたたむ影がひとつ、並んでみっつが視界に入る。

小さいのがぴょこぴょこ跳ね回るので(黄色いほうだ)、トラは一も二もなくそこに飛びかからんとした。

エサだ。エサだ、エサだ!

トラに備わる野性が、疲れた体を鞭打ち、あっという間に狩猟体制は整った。

ぐるぐる鳴る喉はとても素直だ。

扉の外でごおごお風雨の音がする、嵐はまだ居座っている。今食べねば、嵐にこの身は飲まれる。野に生きる者の直感だった。

さあ、爪も牙も、いまにも役目を果たさんと、小さい「何か」を引き裂こうとした、そのとき。



「トラ、おすわり!」



その「何か」は得意満面、何事か唱えた。

突然トラは、地面に激しく伏した、重力が自分を嫌ったと思った。


「おー、チビナス、なかなか」

「あんた、こいつにまで術仕込んだのか」

「おれの可愛いチビナスが、暴漢に襲われる事態もあるかと思ってな」

「…あー、こんなふうにな」


背の高い方のふたつの影が、なにやら話しており、その間も小さいのは、


「やったー!!効いた効いた~!!兄ちゃんたち見てた!?」


ぴょこぴょこし続けた。

まるで動けず、天地のひっくり返ったままで、

トラはようやく己の状況を冷静に分析し、それで振り絞るように問いかけた。


「…妖か」

「ただの狐が、ほんのすこぅし長く生きただけさ」


一番年長らしきキツネが、それこそキツネ的に笑って、小首をかしげた。

傘(思えば、傘やら合羽でこの雨風をしのげたというのがまずおかしいのだが)と大きな尻尾を、ふるふる震わせ、水しずくを飛ばす、

髪が、嵐の闇夜にあってきらきらきんいろに発光している、


トラはやっぱり、これを食べたいと思った。











おすわりの屈辱を受けてから、すでに半月、

トラは結局、その廃屋で飢えを癒やした。(廃屋はすぐさま、三兄弟の妖術によって新品同様になったわけだが)

とはいっても、とてもじゃないが妖しい術を使うキツネたちには手が出せなかったので、

仕方なし彼らの作る料理、そのおこぼれにあずかったわけだ。

それがまあ、驚くほどに旨かった。

いつだって、狩った獲物は生で、良くて火を通しただけのものを食していたから、はたして「料理」というものを食べたのは初めてだったトラだ。

いたく心を動かされた、トラのその感情は、感動というカテゴリに入るものだと、二番目のキツネが口悪く教えてくれた。


「おまえたちは、ヒトガタで過ごすことが多いのか」


トラはいちばん小さいのに、櫛で毛づくろいをしてもらいながら、ぐるぐる鳴る喉でそう尋ねてみた。

チビナス、と兄たちから呼ばれるそのキツネは、ただでさえ丸い目をさらに丸くし、


「ヒトガタって?」


トラの背中に乗り上げて尋ね返す。

なんともいえず、小さな重みが心地よい心境を自分で不思議に思いつつ、トラは丁寧に答えた。


「おまえたちは、耳としっぽ以外は、ヒトに近い形をしているだろう。それがヒトガタだ。純粋な狐の形をしたのは見たことがねえ」

「純粋なきつね…?ふうん?おれ、おれみたいなのが、フツウって思ってたんだけど。でもゾロは、そうだね、トラになったりヒトガタになったりできるもんね え」


まあ妖ならそんなものか、と特に深く考えず、トラも獣型からヒトガタになり、そのまま小さいキツネを抱きかかえた。

キツネはきゃっきゃと笑い、トラに抱き着く。

桜色の小さな爪は、トラのそれとは違いきれいに整えられているから、首筋にちくちく当たるのは、その爪が抱える櫛だろう。

今でももちろん、食欲は湧くのだ、牙も爪もうずく、このキツネたちの匂いはとても旨そうなのだ、

しかし腹は満たされ、別のどこかも満たされたようなこの状況で、これらを狩る必要性を感じないというのが本当だ。

こんなことは初めてだった。

小屋の奥で、二番目のキツネが、「メシだぞ、チビナスつれてさっさと来い居候!」とフライパンを鳴らし、

腕の中の小さいのは、「ちぃにーちゃんの作るごはんも、旨いよな~!早くおれも上手になりたいな!」と足をばたばたさせる。

「居候かー、たしかにそうだな」と年長のキツネが洗濯物を取り込みながらトラに笑いかけ、

トラも、笑った。

片方だけの目を三人ともに向け、それで笑った。

笑い方を知っていた自分に、つくづくと驚く。


今日はあの日とうって変わって、抜けるような晴天だ。






キツネたちは、名前をどれも「サンジ」といった。

一番でかいのがサンジで、そいつがあとのキツネたちの名付け親だが、他に名前を知らなかったから、自身と同じ名前を付けたのだとあっけらかんと言い放っ た。

トラはやはり深く考えず、そんなものなのだろうと思った。

ただ、呼び分けるのに不便だったので、兄弟たちに倣い、一番でかいのを「コック」、二番目を「ちぃ」、小さいのを「チビナス」と呼んだ。

二番目だけは呼ばれるたび、ひどく不服そうな顔をして「そう呼ぶなっつってんだろ!おれもコックとかでいいんだよっ」と言うが、耳が赤いのをトラはちゃあ んと知っていた。


年長のキツネと、二番目のが交代で料理をし、小さいのはそれを覚えようとけんめいだった。

小さいキツネはときどき、「にーちゃんたちに内緒だ」と、手習いのような料理をトラに食べさせ、十分に旨いとトラは感じるのだが、

「…ゾロ、正直にゆって」と頼まれれば、「…ちぃのが旨い。コックのがもっと旨いけど」と嘘はつけず、

そのたびに小さなキツネは二分だけ落ち込み、「もっと頑張る!」と決意を新たにするのが常だった。


年長のキツネは、それはそれは料理の腕が立ち、半月前に初めて「料理」というものを知ったトラの舌をして、「これは凄い」と思わせるほどだった。

弟二人に、妖術と料理とを仕込み、自分たちを食おうとしたトラをも養う。

トラはこのキツネに「酒」というものをも教えてもらい、それは大層気に入ったのだが、

なかでも弟たちが寝入った後、二人して杯を傾けるのはとてもとても好きな時間だった。

長い爪を、二番目のキツネが「あぶねえから切れ!」と言うのをゆったりと制し、「それしちまったら、こいつはトラじゃ生きていけねえだろ」と笑ってくれ た。

ふさふさした尻尾で喉のあたりを撫でられると、それはもう天にも上るような心地よさだった。

ちぃもチビナスも好ましく思っていたが、

とりわけトラは、この年長のキツネを気に入っていた。



滞在は月をまたいだ。

すっかりヒトガタでいることも多くなったトラだが、ときどきは狩りに出かけ、ウサギやらイタチやら、ときにはクマやなんかも手土産として持ち帰った。

キツネの三兄弟は、クマを見たところで動揺することもなく、どう料理しようかと目を輝かせる。

その図太さも気に入ったと話せば、キツネの長兄は「おまえ以上に図太い奴がいるか、結界つきのこの小屋に、無神経にも入ってきたのはおまえが初めてだよ」 と笑う。

初耳だったが、二番目も「っつうか鈍感っていうんじゃねえ?」と笑い、小さいのも「ゾロ、どんかーん!」と意味も分からず笑う。

トラは形ばかり怒り、それから一緒に笑った。


こんな日々がずっと続けばいいと、本能とは少し離れた場所でそう願った。