本日も晴天、あの嵐の夜がうそのように、ここ二か月ほど天候は穏やかだ。

嵐があったのは夏もさかりの頃だったが、今では木の葉もすこぅしずつ色を変え始めている。

木の実がわんさか採れる秋、それを食そうなど考えたこともなかったトラだが舌に改革を起こされ、

今ではキツネの言いなりに木の実採集に精を出す。

(陰見していた他の動物たちからは、トラの野郎が草食になりやがったと喜ばれたり気味悪がられたりしていたが、そんなことトラは知ったことではなかった)

バターとやらで炒めてもいいし、砕いたそれをクッキーだとかいう菓子にしてもらったときはそれこそ驚きと感動がいっぺんにきた。

いつかはここから去らねばならないと思っていたこともあったが(トラとは基本的に、単独行動をする獣である、との自負がトラなりにあった)、

贅沢を覚えた味覚がそれを許しそうになかった。

元来、強くなるというそれ以外、頑としたこだわりがあるわけでもなかったので、

「まあいいか」とお得意のそれで、舌が肥えていくのを許してしまうトラだ。




トラには最近、少し困ったことがあった。


トラは毎日、ものを食ったりキツネたちと関わったり、時折狩りや木の実採取をするその時間のほかは、すべてを鍛錬にあてていた。

トラには二年前にこさえた目の傷と、さらに大昔の腹の傷がある。

双方とも、ミホークという名のトラから与えられたものだ。

鷹という鳥がいるが、その血も少し混じっているときいた。つまりは半分妖、といった類の生き物だ。ルーツはどうでもよいが、恐ろしく強い。

悔しいのは、一切妖術を使わないそいつに、体術のみでコテンパンにやられたことだった。

獣型でもヒトガタでもてんで敵わなかった。

であるから、いつかそのトラを打ち負かすために、鍛錬に鍛錬を重ねているというわけだ。

ところが、だ。

以前なら無心で打ちこめていた、体をいじめぬくというその行為の最中に、なぜか頭をちらつくものがある。

ここ二週間、そのおかげでちっとも集中できていないとトラは自身に憤る。

あまりにもきらきら輝くからだと、しまいにはその対象物に八つ当たりすらしそうになる。


トラは、寝ても覚めても、年長のキツネのことを思ってしまうのだ。


ヒトガタで、腕立てやら木の枝にぶら下がって腹筋やらをしながら、

きらきらした髪や、料理するしなやかな手や、表情と反して気分に従順な獣耳、未開の森を思わせる温もり、そんなものばかり思い浮かべ、

獣型になって狩りの精度を上げたり牙を研いだりしながら、

あの小さな口にくわえている、煙草と呼ばれる火を吹く毒草を捨て去り、かわりに自分の指やら舌やらもっと別のなにかを突っ込んでやりたいような衝動に駆ら れる。

そしてまたヒトガタに戻れば、思考まで野獣化した数瞬前の自身を恥じ、

キツネの、料理するときの幸福そうな横顔、爪を切らないでいいと言ってくれた優しさとか、弟たちのみならずトラをも言い含める芯の強さや、筋の通ったもの の考え方、

そんなものに思い至り、トラはやはり悶々と考え込むのだ。

この、溢れるような、うれしくてもどかしくて満腹と空腹をいったりきたりするような感情はいったいなんなのか、と。


獣型でいることの長かったトラは、発情は理解できても、恋というものを知らなかった。






ある日、とうとうトラに限界が来た。

強靭な精神力と頑強な忍耐力を誇るトラでも、所詮、根は動物だ。

夜中に年長のキツネと、酒を酌み交わしていると、おもむろにキツネが大きな尻尾でトラの手の甲を撫で上げ、


「無理にやりすぎても筋肉壊すぜ。

 …最近、いじめすぎじゃねえか」


控えめに笑った。

笑いやがった!

触れられた手から順に、全身に熱が広がる。

トラは血が沸騰する音を、確かに聞いた。

ちくしょう、とうめくと、テーブル下にキツネを突き飛ばしてしまった。

キツネは驚いた様子だった。長く生きた分、驚くことが少なくなったといつぞや言っていたくせに。

左目をこぼれそうに大きく開き、そうしているとどこか幼く、二番目をすっとばしてちびのキツネをも思わせる。

その中に、獣化したトラが映った。

牙をむいて目が血走った、ひどく獰猛なそれは、まごうことなき自分の姿だった。

それでようやく理解した、恩人を獣型になって押し倒してしまったと、

そして初めて恐怖した。


「にげろ!」


てめえをめちゃくちゃにしてしまう、そう振り絞るように言ったのに、

キツネの妖は動かなかった。

死ぬほどの精神力でもって発情をねじ伏せ、理性をふんじばって連れてきてその門のなかに性欲を閉じ込めた。

それで、キツネの手に、その鍵を渡そうとしたのに、キツネときたらすっと目を閉じた。


「にげろ、つってる、だろ!」


なんとか獣化を抑え込みヒトガタに戻ったトラは、もう一度キツネに叫んだ。

キツネはそこで、まっすぐトラを視た。

先ほどの動揺は毛ほども感じられない。湖面を思わせる穏やかな瞳だった。

そのまま、再びにっこりほほ笑んだ。



「おすわり。」



そこから先、きれいに意識がない。





トラは床面に思い切り体をたたきつけられ、気を失っていたらしい。

ちびのキツネの扱う術と比べ物にならないくらい、長兄のそれには力があったわけだ。


「ここ、どこだ」


ようやく目覚めたトラは、子どもの好むような、木製のブランコに座っていた。

ベンチ型のブランコの、隣には、慣れた匂い。安心も興奮もする、温度。


「ちょっと、裏側。チビたちが起きちまうからな」


肩が触れるか触れないかくらいで、キツネが呟く。

裏側というのが、家の、とかそういう意味ではないとトラは理解した。

一面を埋め尽くす花々は、季節関係なく色々なものが咲き誇っている。他には木も池も家もなければ、鳥も虫も、およそ生き物の気配がない。

どでかい月が太陽のように空に輝く。

夜なのに昼のように明るく、まったくの無風。明け方に見る夢の中のような。


ここは、世界の裏側だ。



「…コック、すまなかった。おれぁここんとこ、どうかしてる」


世界の裏側だから、トラも素直になれた。

キツネはすっと、ブランコから降りた。花の中に、その引きしまった足首が吸い込まれる。

トラはおいかけようとしてやめた。そんな立場にないと思ったからだ。


「てめえは」


キツネはトラに背を向けたまま、その場にしゃがみ込んだ。


「てめえばかり辛いような顔しやがるのが、死ぬほどむかつくぜ」

「あぁ?」


尾や、頭の上に乗っかっているキツネの耳がすこし震えているようだった。


「てめえは腕っぷしは強いがただのトラだ。おれぁバケモノ狐だ。オス同士で、しかも寿命が違うときてる。

 どうあがいたって、しあわせっつうのとは縁遠い」


声まで震えている。


「単細胞はんなことにも思い至らねえんだろうが、おれは考えたぜ。

 辛くて、それでもてめえが欲しくて、どうしていいかわからねえで大人ぶって、だっておれぁてめえの五倍くらいは長く生きてる!」


言われた通り単細胞のトラには、キツネの話は難しくて理解に難かった。

だけれど、なにをいわれているのか、わからないのに、どこか嬉しいような。

自分の手も、なぜか震えている。興奮のためか、なんなのかよくわからなかった。


「てめえが先に死ぬだろうし、もっと辛いこといっぱいあるかもしれねえ、

 でも、ぐるぐる回って、やっぱり、おれ、」

「・・・わかりやすく、言え」


とうとうトラは、ブランコから降り立った。

花を踏みしめる趣味はなかったが、この際そんなことはいっていられない。

この震える手で、あの震えるキツネを抱きしめてやることしか頭にない。


「バケモノでもいいなら、てめえ、おれのもんになりやがれ!」

「こっち向いて言えクソギツネ!!」


ようやくその肩を掴んだ。

トラの握力にびくともせず、花を数本その手に握りしめ、キツネはゆったりと振り向いた。

俯いた顔をもっとゆったり上げた、

トラは仰天した。

キツネはぐしゃぐしゃのぼろぼろに泣いていた。

あ、とか、う、とか、しゃくりあげに近い発声ののち、

きざったらしいキツネらしく、花を差し出しながら言った。



「ゾロがすきだ。」


おれのつがいになってください。



驚くほどちいさな声だった。

トラは自分まで泣けてきそうになって困った。やり方を忘れていたはずなのに。

恋を知らないトラだったが、「すき」という言葉がこんなにも愛おしいものだと知った。

とにかく抱きしめ、むしるように花を受け取り、

コック、

とだけ言った。

トラは経験がなさすぎて、こういうときどういう言葉で伝えるのがよいのか分からなかったからだ。

対するキツネは、やはり五倍は長く生きていたということで、

それですべてを察してくれたようだった。

ほころぶように笑ったキツネの、涙にぬれた頬に、トラの長い爪がそぅっと触れる。

キツネにじかに触れることができるなら、この爪を切ってもいいとすら思った。


そこで、ぱちんと何かがはじけるような音がして、

月がぐるりと回転し、え、と思う間もなく

トラとキツネはもとの家に戻っていた。





すったもんだあって、その後トラとキツネはつがいになった。

トラは丁寧に丁寧に、忍耐力の訓練の様相を呈しながら、キツネを自分のものにした。

オス同士のやり方には明るくなかったが、そこは長生きのキツネが自ら手ほどきをしてくれて(かなり真っ赤になりながら)、トラにはそれもたまらなかった。

ただキツネは当初、自分がトラを手籠めにするほうの立ち位置だと決めていたらしく、


「おれがプロポーズしたのに、なんで奥さん的なポジションがおまえじゃなくておれなんだぁ…」


としばらく嘆いていた。

プロポーズがなんだか知らなかったが、どうやらあの花を贈る行為は、オスがつがいとなるメスに求愛する際のセオリーらしい。

トラとしてはキツネにあれこれする楽しみは頑として譲れなかったし、

キツネのほうも、求愛したくせ筋肉ダルマみたいなトラにどうこうするのは妄想でも難しかったらしいので、

まあ結局はおさまるところにおさまったような感じだ。





今日も今日とて、トラはキツネの三兄弟と仲良く暮らしている。

一番ちいさいのを右腕に抱きかかえ、二番目が何かと突っかかるのを左手でいなし、つがいの相手がそれを笑うのを見て、

あの嵐の日に感謝さえするのだ。


本日も晴天、雲一つない空。

青天井を、ちびのキツネの笑い声が押し上げる。

澄んだ空気が、冬の気配を内包する、秋の終わり。



もうすぐ、四人で迎える、はじめての冬が来る。











次は二番目ギツネの片思い編とか書きたいです