夕陽が傾き、和也のまるい頬を、障子の影が四角く切り取る。

蝉は寂しさを綯い交ぜにしてかしましい。

夏が終わる。

和也はきちんと終わりを迎えるものが好きだ。


障子の向こう、移ろい行く季節は、たしかに時の流れを知らせてくれるのに、

ここでは昨日も今日も明日もない。

あるのは夜だけだ。この仕事に誇りを、どうせなら誇りを、と初めの夜まではそう思っていた。


夜がすべてを打ち砕いた。

























和也は番頭新造、と呼ばれる、いわば遊郭を管理する側の遊女だった。

なぜって当然といえば当然、女と偽られて売られてきたものの、和也はれっきとした男だったのだ。

夜鷹にならずに済んだのは、彼自身、若齢ながら立派に遊女たちの世話や客との取次をこなしたからだ。

若い衆はいた。無給同然で働く男は幾十といて遊郭を支えていたが、

それに加えるよりもずっと、番頭として仕事をさせたほうが良いとおかみが判断した。

化粧など施したこともなく、女物とはいえ地味な着物に身を包み、遊女のために甲斐甲斐しく働く。

本来なら年季のあけた経験豊富な遊女が担当する役職だが、なかなかどうして和也は女たちに気に入られ、上手くやっていた。

そのつもりだったのだが。


番頭新造も、稀にではあるが客をとることがある。

だが和也が男であるということは公然の秘密であり、懇意の客たちもそこを理解していたので指名などあろうはずもなかった。

ところが、だ。

それでもいいという男が現れたのだ。

それこそがいいという男が。


店の遊女たちはあんなにも和也によくしてくれていたのに、たった一つの指名のために、

手のひらを返したように冷たくなった。

物好きにも和也を指名したのは、天下の両替商、赤西家の跡取り息子だった。

その人物の噂は、堅固な楼閣の、檻の中にもとどろいていた。

すでに妾やら遊び女やら両の手に余るほど抱え、その間に設けた子が十八人、いっそ伝記的人物ではあったが彼自身は若干二十二歳の身の上。

本妻は持たず、一度寝た女とは二度寝ない。

色男の割に商才には恵まれており、父にも祖父にも溺愛された、

そうしてあっという間に、世間を騒がす不逞かつ不貞者、好色一代男のできあがりだ。

それでも、赤西怒れば天下の諸侯色を失うとされた時勢にあって、世の誰一人、男の傲慢と奔放を咎めることはできなかったのだ。

彼に目をつけられたということは、日の本の国中の女性の羨望と嫉妬を一手に引き受けたに他ならない。

姉と慕った遊女たちの、女性としての矜持を傷つけられたがための冷たい視線や態度は、

年若い和也がさめざめ泣くに十分な恐ろしさだった。

一頻り泣いて、それでも楼主に涙ながら、どうかくれぐれも頼む、和也なら大丈夫だ、と説得されれば和也とて溜飲の下がる。

その、夜、までは、和也は自分を蔑むなかれ、これもたいせつな仕事なのだと自身に言い聞かせ、世話になってきたおやじさまに恩が返せるとすら思い、

この役目を立派に全うしようと覚悟を決めたのだ。

和也は十四を数えたばかりだった。




和也でありんす、と、女名も持たぬまま座敷に上がる。

粗相のないようにと楼主やおかみにきつく申し付かっており、和也は緊張に震え、相手の顔もまともに見なかった。

真新しい畳につく三つ指が、蝋燭の灯りの橙に揺られる。

箏に三味線、たくさんの女郎の煌びやかな着物の裾がたゆたう、金と白と紅の部屋で、

大盤振る舞いされた酒や料理を、客人が豪快に嚥下する。

その喉元にだけ、かろうじて和也の視線が這って上がった。

見るからに高価そうな呉服、絹の、それも羽二重の裏地が見て取れて、年若い新造はますます恐れおののく。

赤西の放蕩息子は、それを気配だけで笑ったが、

男の身ながら遊女の着物に身を包む自分に消え入りたい心持ちで、

和也は果たして、それに気づくどころではなかった。


初回は会話すらままならぬ、高嶺の花魁太夫、というわけでもないので、

ただの番頭新造とその枝太極まりない上客は、すぐに褥へと滑り降りた。

そこで初めて、和也はその好き者の顔を真正面から視た。


「あかにしさ、ま」


あまりにも、天女さまがいたらこんな風情ではと思うような、

うつくしい男だった。

和也は不躾と理解しながらも、その貌に奪われた視線を取り返すことなどしなかった。

ほんとうに、おそらく吉原の太夫やら千両役者やらと並べても引けを取らぬほど、

客人はうつくしかったのだ。

絢爛たる紅の褥に、正しく座して向かい合う。

御曹司のほうも立てた膝の上に顎を乗せ、じっと和也を見ていた。

一刻も、二人でそうして見つめあっていたような気分だった。

逸らしたら負けとばかりに見つめ続ける和也を頑固と思ったか、雲上の客人は呆れたように笑う。

そうして訥々と話す、


「奇跡だと、おれは思ってんだけどよ」


歌の一節かと思うほどに、艶めいた声色だった。

あまりに見た目の通り、素晴らしい声だから、和也はその内容までよくは吟味できなかった。

月明かりが、狂ったように赤い褥をするする舐める。


「は、ぁ?」

「おまえみたいなのが、おれが貰い受ける今日この日まで生娘でいたってのは」

「わっちは、男の身でありんすゆえ」

「…そういう喋り方は好かねえ。店で姉さんたちを仕切ってた時みてえに、普通でいいよ」

「と、申されんしても…」


このようなときの要領を心得ない和也は、ほとほと困ってしまう。

廓(くるわ)言葉を禁じられたら自分は、分不相応なお包みに着られているだけの、ただの子どもとなってしまうからだ。


「まァいい。とにもかくにも、今日はお喋りの指南に来たわけじゃぁねえからな。

 …がちがちのおまえさんを見て、初めはそれだけでもいいかとも思っていたが、…いやぁいけねえ。

 おれの他におまえに手ぇ出す阿呆がいねえとも限らねえ、さっさと手ぇつけとくに限る」


言われていることのほとんどがよく分からなかったが、ただ一つ、

今宵自分は同性と契りを結ぶのだと、女のなりをして女のように足を開くのだと、それだけが残酷なほどに理解できた。


「死ぬなよ、ちいせえの」


理解すると、どうしようもなくおそろしくて歯がゆくて、気づけば


「…和也が死なぬよう、赤西さま、

 どうぞよろしくお手ほどきのほど、お願いいたしんす」


誇りを、と、胸にはためく虚勢が、そんな生意気を口に上させた。

上等、と客人は、信じられないほど楽しそうに笑った。

それを見て、和也は熱くて暑くてたまらなくなった。

今が夏だと改めて思い至り、どこか遠くで蝉の声を聞く。


夜が、うつくしい男の姿をして、和也をかき抱いた。





あくる日の朝日が、自分を灰にするものだと、和也は信じた。

涙も枯れた瞳には、格子の先の窓の外、飛ぶ鳥すら恨めしく、浮かぶ雲すら厭わしかった。

和也は何一つ、帯も、襦袢も、虚勢すら脱ぎ捨てて、ただの赤子のように豪奢な布団に横たわる。

本来ならば客人をお見送り申し上げるべきところだが、いかんせん体が動かないのだからいた仕方ない。


夜は、いとも容易く、覚悟も誇りも打ち砕いてくれた。


赤西はそれでも、遊び慣れている彼らしく、

和也の身体をこの上なく愛おしみ、そっと上布団を着せかけた。

たまらなかった。

和也は男で、彼も男で、それなのに

買うものと買われるもの、奪うものと奪われるもの、持つものと持たざるもの、彼我の間にはこのように大きな開きがあることが、

どうしようもなく悔しくて悲しかった。自尊心はうっちゃられ、いたたまれなかった。

どうやら、彼と同等で、対等でありたいなどと、和也はそんなふうに思っているらしかった。

だいそれたこと、くだらない妄執だと分かるのに、金で買われた自分の肌をひどく汚らしく感じる。

この関係が割り切られたものならば、和也はきっとこんなにも苦しくなかった。

遊び人相手に自分だけが割り切れない事実が、和也をこんなにも苦しめた、というべきか。


「後出しで悪ィが、おれの名前を教えておく。

 赤西仁だ。忘れねえように指にでも彫るか?

 明日は野暮用があるが、明後日また来る。毎日でも来る。

 …男と寝たのは初めてで、少ぅしばかり無茶をした、……身体をいとえよ」


去り際、そんな言葉とともに、

夏の時雨のような、夕時の涼やかな風のような、くちづけがいくつも贈られる。

遊郭に、昨日も今日も明日もない、と和也はぼんやり思う。

赤西は噂とたがわぬ遊び人で、

しかし噂と違い底抜けに熱い男で、底抜けに優しかった。

さても、本意はさっぱり見えない男で、なんとも赤西は残酷だ、とも、和也は思う。

蝉がまた唸る。

和也の涙が夜に飲み込まれたように、夏の朝の清浄な光が、夜のしめやかな熱気を飲み込む。

こんなにも辛い。

次の夜が欲しいのに、いざまた夜が来たらきっと自分が押し潰されるのではないか。



遊女としてあるまじき、

和也は赤西の指に、瞳に、声に、輪郭に、その人となりに、

幼い恋を宿してしまった。










せっかくリクエストいただいたのに、中途半端ですみません
このあとの波乱万丈ハッピーエンドまで書きたかったんですが、
かずたん視点で書ききるには根性と文才が足りませんでした

というわけで、御曹司視点で夜2「葉桜のころ」に続きますので、
よろしければそちらも併せて読んでやってください〜




以下、初夜の様子、ぬるいですがどうぞ↓











和也、と流し込まれた声音が、耳殻をひどく揺すぶる。

蒲団の上、どこぞの箱入り娘にそうするようにそぅっと横たえられ、ひどく繊細に衣を剥がれた、

このようなことは全くの未経験である和也ですら、これは丁寧が過ぎるのではないかと気づいたほどだ。


「おれがはじめで、本当によかった」


胸のあたりで、吐息と聞き紛うような小さな声で呟かれ、正直に驚く。

どういうことでありんしょう、と尋ねようとしたが、

突然にいろいろと悪戯を仕掛けられ、和也の幼い性は簡単に燃え上がる。

自分は布団の上にいるのだと知っているのに、どこか雲の上を漂うような心持ちだった。

気持ちが良すぎて、赤西は千手観音のようにいくつも手を持っているのではないかとすら考えた。

自分でしたことはないのかだの、こことここだとどっちが良いか等と矢継ぎ早に責められ、

きちんとお返事申し上げねばと思うのに、浅い呼吸だけが室内を満たす。


「もう気を遣りそうか」


赤西が短く尋ねる。

その弓手で何度も愛でられて、こんなにも早く煽られることにただ驚く。


「あ、あかにしさまっ、あ、そのようなこと、いけません…っ」

「…ああ、その話し言葉のほうがずっと良いな。可愛い」


笑いかけられて、あっけなく頭のなかが白んだ。

瞼の裏で、花火が幾十も打ちあがったようだった、

それが止むと、ただ客人の笑顔だけが焼き付いていた。


「あ、あ…」


まさぐられていた部分が温んでいたので、それでようやく、自分だけ早々に達してしまった事実に気づく。

暑くてたまらない。

自分の貧相な胸が、出してしまったものに濡れたのが見て取れて、思わずそばにあった襦袢をたぐる。

まるで女性でないことが、なんとなく虚しくて恥ずかしく思えた。


「隠されると弱る。暴きたくなるだろう」


だのに、幼子に諭すような口調がやわらかく降ってきて、頑なな衣をはいでいく。

気にしてなどいない、おまえが男だろうとなんにも困らないとでもいうように、遊び人の視線はとことんまで優しかった。

初めてのお客がこのようにお優しいお方であるのは、

苦行を強いられることもある他の女郎には申し訳がないほどに、ありがたいことだ。

それなのに、どうしてか。

この優しさが、今まで幾人もの女御に注がれてきたものであるのだと思えば、どうにもやりきれなくていけない、

和也はこのような感情に名前のあることを知らなかったので、ただただ濡れた胸のうちで持てあますのみだった。


「暴いてもいいか?いいと言え、和也」


長い指先が、白い襦袢を持ち上げる。

されるがままだった。それが返事であった。

胸元を覆っていたそれはべっとりと汚れていて、羞恥に穴にでも入りたい気分だったが、

赤西はそれを指ですくいとり、あろうことか潤滑油代わりに後ろへ塗りこめた。


「っ、ぁ!」

「息を止めるな。吐いて、もう一度、上手だ、…吸って、吐いて、…いい子だな」

「ぅ、ん、ぁぁ…っ」


意地でも痛いなどと言うつもりはなかった。事実、痛いというより、焼ききれそうにただ熱かったのだ。

すると客人は、二度髪を撫でてから、舌でへそから腰骨の辺りを辿った。

そのまま下生えをくすぐられ、一度気を遣った股座にまで這う始末。

すぐにそこはまた兆しを見せたが、気持ちが良すぎて辛いほどだった。


「さわらないで、くださ、そこはもう、もう、」

「少しでも気が逸れるかと」


赤西はとても楽しそうだのに、額に玉の汗を浮かべていた。

澄ました顔をして、遊び人の風情で、それだのに余裕なく汗みずくなのだ。

ああ、と思う。

彼は、男を抱くのは経験がないのだろう。この方なりに、緊張もしているのだ。

慣れぬ男の身体を、それでもとてもとても、丁重に、丁寧に手ほどきしてくだすっているのだと、痛感する。

はたと気づいたその事実は、雷のように全身を貫いて、頭のうちがわまで痺れさせた。

わけのわからぬ喜びだった。

誰かに、大切にされるということの、

その至上の幸福の、片鱗を味わったような。



二度目の気を遣って、触らないでと懇願するのにさらに嬲られ、腰の辺りが疼いて仕方なくなった頃ようやく、

和也は赤西の熱を迎え入れた。

その段になると、声は枯れ果て、幼児のように溢れた口もとの涎だけが、快楽の凄まじさを相手に知らしめた。

そうなのだ。痛みは最初の一突きのみだった。あとはもう、暴力にも似た悦が幼い身体をただ支配した。

前も後ろも蜜壺のごとくになって、相手方の熱の放出を腹の奥深くで受け入れた時には、

あまりの衝撃に気が動転したのを覚えている。

抜き去られるのがさみしくて、中を擦られるのがたまらなくて、無我夢中に相手にしがみつく。


「あ、あ、ゃだ、なか、こぼれる、こぼさないでっ…」

「…わけが分かって言ってんじゃねえなら、煽るんじゃねえ!」


どういうわけか同じく焦ったような赤西が、きつく自分を抱き返してくれるので、

そのひととき、夢のように安心したのだった。



事が済んで、指一本動かすこともままならぬ疲労に襲われる。

襤褸のようになった襦袢に、乱雑に散らかる装飾具に着物、捩れに捩れた赤い蒲団が視界をかすめ、

いたたまれないといったらなかった。

和也の幼い身体は、容量をこえた快楽を消化しきれず、まだびくびくと震える。

それを愛おしむように抱く腕が、偽りの愛で温かいのだと知っている。

この遊郭の姉さん遊女たちを仕切っていた和也だから、痛いほどに知っているのだ。

客を相手に恋心を抱く遊女は莫迦で、遊女を相手に本気になる男も野暮。

遊びを愛と錯覚させてこそ遊女は一人前で、それすら受け止めてこそ男の粋だ。

知っている。

分かっているのだ。

十かそこらで売られてこっち、和也は偽りの愛を売るための算段をして生きてきた。

だから今度は、自分の算段をしなくては。


「和也、……身体をいとえよ」


客人はそんな言葉とともに、和也に種を植わえていった。

花が咲けば、きっとこれは恋になる。

野暮と呼ばれぬうちに、芽を刈り取る算段をしなくてはいけなかった。


窓の外、蝉が鳴きわめく。

朝の光が少し和也を冷静にする。

そうして、豪奢な部屋でひとり、

お天道様を臨む向日葵が刈り取られる景色を想像して


いよいよ泣かずにはいられなかった。