一生分の涙を、
あのちいさな格納庫だけが知っている。
料理人の聖地、キッチンで泣くなど言語道断。
持ち場では常に笑顔で、たとい男部屋に戻ったとして、そこでもスマートでクールな兄貴分として君臨し、女性の前では言わずもがな。
笑えるような面構えの羊船の板張りを、両足でこれでもかと踏みしめる。
男の見栄と海賊の意地とをつっかえ棒にして生きているサンジは、格納庫の片隅でのみさめざめと泣く。
ホームシックという概念すら持ちえなかった彼は、当然そのことで泣くのではない。
明日をも知れぬ身だが、それは生まれ落ちた時からそうである、確固たる覚悟と信念のもと生きる彼において、勿論そのことで泣くわけもない。
ならば歯牙にもかけてもらえぬ航海士のつれなさを思って、…それも違った。
戦うコックの意地の左足と見栄の右足を、いともたやすく手折って、格納庫の冷たい床に這いつくばらせるのは、
先の見えない片思い、それに尽きる。
その日もサンジは、完璧な料理をし、完璧な給仕をして、完璧に片付けを済ませ完璧に仕込みを終え、とにかくクールにエプロンを片し、「一服してくっか」、
とすばらしくスマートに男部屋を後にする。
格納庫へ一直線、一服しながら滂沱の涙。
万が一、煙草が火種落としちまっても、おれから出る水分ですぐに消せるなぁこれは安全安全と、小さくて軽い頭の片隅でぼんやり考える。
小さくて軽い頭の片隅、それ以外の脳の大部分は、毎度同じ思いで塗りつぶされる、
好きだ。
好きだ。
とても好きだ。
シンプルかつウルトラヘビーな「好き」は、サンジを押し潰さんと日に日に膨れ上がっている。
不毛すぎて、単純かつ無謀すぎて、サンジはとてもじゃないが、破裂しそうなそれを直視できない。
なぜって彼の想い人は、美しい航海士でも、以前少しだけいい関係だったフローラちゃんでもリリーちゃんでもローズちゃんでもマリアちゃんでもないからだ。
(マリアちゃんは特にいい子だった、包容力があって、名前の通り女神様だった、そこまで思い至り、また泣く。)
ゾロだ。ロロノア・ゾロ。
よりにもよって、あのぐうたら剣士だ。
男で、むさくるしくて、ありえないくらいゴツくて、男で、ソリも合わなければ視線も合わず、むかつく奴で、男で、寝汚くて、緑で、何よりも男だ。
…、男なのだ。
自分がホモになっちまったと泣き、ジジィにおれのガキを見せてやる夢は潰えたと嘆いて、そうしてどうあがいてもゾロが自分を好きになりそうにないことに絶
望しては号泣する。
海の一流コックの華麗なる日常に「格納庫で泣く」が追加されて早三週間、自分がこんなに甘ったれの弱たれであったのかと驚いた。
三週間前のあの日、夕食の準備を終え、サンジは甲板へと剣士を蹴り起こしに向かった。
なんら普段と変わり映えのない、午後五時。夕暮れ。
海は凪いでいた。
夕飯を待ちきれず騒ぐ、船長及び船員たちのにぎやかな声が、遠くに聞こえる。
夕日が冗談みたいにでかかった。
メシだ、と寝こけている剣士の腹を一蹴、さらに罵詈雑言吐き捨てて、そうしたら向こうもきっと反論して、大喧嘩に発展してでもそれも少し楽しくて、そんな
日常となるはずだった。
ところがだ。
罵り合いのキャッチボールが、三巡ほど続いたような、そのとき。
「てめえマジでうるせえな。
もう金輪際、てめえの料理なんか食わねえ、だから好きに寝させろ」
その日のゾロは、そんなことを言った。(実際よく覚えていないというか、衝撃が強すぎて輪郭だけ記憶しているものだから、微妙なニュアンスは異なるかもし
れない。)
かわいそうなコックはしばらく頭が回らなかった。
自分の十九年を、ジジィから包丁を譲り受けた日を、ジャガイモの皮むきで指から血を出した日を、初めてコンソメスープを客に出した日を、ぼんやりと思い返
す。
その日々を、自分の積み上げたものを、根底の根底から否定された気がした。
いつものように、何か返さなくては、ウィットに富んでいて、自分らしくスマートかつ口汚く、何か言葉にしなくては、そう思うのに、…他の誰あらぬゾロにそ
んな仕打ちを受けたのでは、震えながら煙草に火を灯すので精いっぱいだった。
サンジは結局、
「そうか。食ってもらえないってのは、困ったな」
弱弱しくそれだけ、その、本心だけをようよう口にして、笑うしかなかったのだ。