かくして、その日からサンジは毎夜、格納庫で湿り気たっぷり、泣いてしまうようになった。

今日も今日とて夜の格納庫の奥の奥、太いロープやら投網やらに額を押し付けるようにして、声も上げずに泣いていた。

女々しくてまこと情けない限りだが、ここできっちり二十分落ちることで、明日もコックとして、背筋を伸ばしてキッチンに立てるわけだ。

たとえ、ぐうたら剣士に二度と食わないなど言われようとも、だ。

あれ以来、多少はまずいと思ったのか、ゾロは「食わねえ」どころか、食事に遅れず参加するようになった。

だけでなく、神妙な顔をして、いただきますやらごちそうさままで言う剣士の変わりように、航海士や狙撃手あたりはどんな魔法を使ったのかと興味津々だったが、サンジはといえば曖昧に笑うばかりだ。

ゾロは、ああ見えてとても、人間らしいところがある。

鬼か仁王かというような出で立ちだが、料理人であるサンジの矜持を傷つけたのではと、あれで人並みに反省しているようだった。

あのまま、憎たらしいままいてくれたら、どんなにいいか。

料理人に向かっててめえの料理なんか二度と食わないなどという、人非人で、人の心を解せぬ悪漢を貫いてくれていたら、もしかしたら少しはこの慕情も薄らいで、楽になっていたかもしれない。

しかし、その不器用な人間味がゾロなのだ。

人斬りたるゾロは、あまりよそに見せないが、言動の根っこに温かい心臓を持っていて、そんなこと、サンジはもちろん、この船に乗る船員すべてが分かりきっていることでもある。

だからなおのこと、好きだというのだ。ちくしょう。


「先がないなんて、わかっちゃいるが」


サンジは啜る洟の合間に、唸るように呟く。不毛、不毛、不毛。

わかっている。ただの仲間に戻りたい。

この気持ちに着地点はきっとない。

このまま遭難して不時着するならいっそ、別の恋を探したい、なんならまた、マリアちゃんとでも連絡を取り合おうか。


「ああでもマリアちゃんは、もうお嫁にいったんだっけ…」


毎回考えるだけで、次の日も結局、あの男を視界に入れれば劣情は全力でそこに向かうのだ。不毛。

涙の出るままに任せて十五分、タイムリミットはすぐそこだ。

あと五分で、(こんなときばかりは時間に正確な)船長が夜食を求めて目を覚ますし、勤勉な航海士もそろそろミルクのたっぷり入ったホットティーを所望するころだ。

抱き枕替わりの投網から離れ、胸ポケットを探ると、新しい煙草をくわえる。(一本目はとうに燃え尽きていて、なんとなく今の自分を彷彿とさせたから思い切り踏みつけておいた)

火をつけようとマッチを手に取る、辺りを仄明るく照らす、サンジはほんの少し安心したような心持ちだった。

火は好きだ。

煙草に灯すマッチの火も、料理に欠かせぬコンロの火も、サンジの心を撫でてくれる存在だ。

触れれば火傷をすると、料理人である彼は誰よりもそれを知っているのに、今日はなんとなく指先を焼いてみたいような気分ですらある。

もともと弱い頭がもっと弱っていたとしか思えない、けれどそれこそが唯一の逃避手段だと、ひどく甘美な誘惑のように感じた。

ちらりと、大昔に聞いたかわいそうなマッチ売りの少女の話をぼんやり思い出したのだ。

 
爪まで整えられた中指が、細い火に触れるまであと数センチ、


「やめろ」


不意に、低い声が、狭い部屋を押し広げた。

間違うはずもない、戸口にいたのは、ゾロだった。

不機嫌もあらわにサンジを睨めつける。

後ろ手にドアを閉ざされ、マッチのうすぼんやりした灯りだけが二人を、永遠のように照らした。


「ゾ、」


なんで、とかどうしてここに、とか言おうと思ったはずだ。

おかしい。

声が出ない。精神的ショックというか、そういうのでいよいよ声帯まで参ってしまったのかとすら考えた。


だが、違った。

変化は突然だった。


まず耳鳴りがした。皮膚が粟立つ。

そうして、ゾロが鬼徹に手をかける、抜刀するというより、まるで共鳴して暴れるそれを諌めるような手つきだ。


「…コック。“それ”は、てめえの知り合いか?」


ゾロは眼光だけで射殺せそうなほど、サンジを通り越してその肩の奥、そこにいるらしい何かを強く睥睨している。

自分の背、には、壁しかないはずだが。

首筋と三半規管がきりきりする、いくさ場で培った経験が、海で育った本能が、これはやばいと告げている。

サンジは首だけ回して、背後の気配を探る。いよいよ焦る、耳鳴りが冗談ではなくなってきた。

そうして。


「サンジちゃぁん、だめよぉ。忘れちゃったのぉ?むかぁし教えてあげたじゃなぁい、

 暗ぁいところで一つ灯(び)ともしたら、
 
 …地獄の扉が開いちゃうよぉ、って」


「マリアちゃん…!?」


耳鳴りの遠く向こう、からからと陽気な笑い声とともに、涼しげな声がかすかにきこえる。

ようやくもって、声帯が自由となり、彼は過去の情人の名を思いのたけ叫んだ。

ゾロが思わず、目を丸めて再びサンジを凝視する。

サンジが呆然と放った一言に、しかして一番驚いていたのはなぜか、ゾロらしかった。

さても、闇は突然、聖女の輪郭で現れた。