あれは確か、サンジが十六のときだ。
蝉の声がとてもうるさく響いていて、入道雲が空を覆い、海は太陽を反射して宝石めいて光った。夏だった。
マリアという女性は、一番の馴染みの食材店、その隣に住んでいた。
独特のイントネーションもご愛嬌、女性らしいシルエットに柔和な笑み、彼女への求愛者は後を絶たなかった。
サンジよりも三つ年上で、三つぶん賢く、三つぶん気取っていて、三つぶん以上優しかった。
(ベッドでの手管もいろいろと教えてもらい、その際、夜話のひとつとして、「暗闇で、マッチや煙草、…ひとつだけ灯りを灯すとねぇ…地獄から案内人が来
て、連れて行かれちゃうから、気を付けないとだめよぉ」と聞いたことがあった。彼女が無表情にそう語ったことを、ふと思い出した)
サンジはすぐに骨抜きになり、彼女と結婚するとまでのたまい、ゼフや同僚たちは呆れ果てた。
肝心のマリア本人は、いつもにこにこと笑うばかりで、サンジをけして拒まない反面、結婚を受け入れることもなかった。
そうしてある日、木枯らしが吹くようになった季節に、突然彼女は姿を消した。
その理由を、五か月後に人伝てに知り、サンジは若さに任せて三日は泣き暮らした。
彼女はどこかの大金持ちと結婚したのだった。
だがやはり若さゆえ、さらに三日後にはけろりとして、次の女性にアタックするのがサンジという男だ。
そうだ、そうだった。彼女は結婚して、幸せになったのではなかったのか?
彼女はあのときのまま、聖女の笑みを頬に刷いて、そうして再び、サンジの前に現れた。
…おそらくは、敵として。
「…マリアちゃん、本当に君なの?」
ゾロはいまだ、鬼徹に手をかけたまま微動だにしない。
サンジはざっと思い出した古く柔らかな記憶と、眼前の鋭利な美女を摺合せ、そして戦慄する。
彼女は壁から生えてきたようにして、そこにあった。
ほとんど融合している様子なのだ、無機質な壁と、柔らかい身体が。
真白いワンピースを一枚のみ、身に着けており、サンジの指先のマッチが揺れるに合わせふわふわと裾を揺らす。
まだ耳鳴りはおさまらない。
「なぁにサンジちゃぁん、疑っているのぉ?ここがどこだか分かってるぅ?
グランドラインの真ぁん中で、まだそぉんな眠たいことを言っているのはぁ、サンジちゃんくらいなものよぉ」
サンジは混乱する頭を必死に整理した。
数瞬前まで焼いてみようかだのと、上せあがっていた指先は冷静さを取り戻し、まずは速やかに、短くなったマッチの火を消す。
他に光源のない格納庫は、暗闇のはずなのに、彼女だけがぼうっと浮かび上がって見えた。
「ふふっ、今更消してももぉう遅いの!誘導灯をどうもありがとう、サンジちゃぁん。
…私はあなたをみつけたわ」
聖女は小首をかしげて楽しそうにする。
そうして完全に、壁から身体を切り離し、そこに降り立った。
ゾロもサンジも臨戦態勢はコンマ一秒で整ったが、いかんせんぐらりぐらりと格納庫が、否、二人の周囲のすべてが揺れだし、サンジはいよいよ立っていられなくなる。
ゾロも同様らしく、不覚とばかり膝をついたらしいのを、気配で察した。
しかし、ついた先は床ではない。
見慣れた格納庫、その存在はもうどこにも見当たらず、ぐらぐら揺れうごめく空間、黒とも闇ともつかぬ、虚無のみが広がった。
床すらないのだ、どこまでも落ちていく、と覚悟したが、実際は踏みしめれば空間は固まり、それに先に気づいたらしいゾロが踏みとどまって、サンジの腕を掴み上げた。
今、この力強い手のひらだけが指針だった。
「これが地獄の、窯の蓋。
あなたたちを、ぜぇひ、窯の底へご招待したいのよ!」
不意に聖女が笑う。蓋、と背後を指差す。
真白いワンピース、その華奢な肩越しに、メリー号くらいは飲み込んでしまいそうな大きな門扉が音もなく現れる。まるで百年も前からそこにあったようにそびえ立つ。
ぴったり合わさった扉はどうやら、巨大な一枚岩が組み合わさってできているらしいと見受けられる。
扉面には禍々しい紋様が丁寧に掘りこまれている。
地獄とは、かくや。
そんな非現実を目の当たりにし、あー今から敵同士として、麗しいマリアちゃんと対峙しなきゃなんないのか、とサンジはどこかあさってなことを考えた。
ゾロにすくわれた右腕が、こんなときだのに、とても熱い。