サンジは泣き濡れていた頬やら洟やら、絹地のシャツの袖で大胆に拭う。
おそらくはゾロに全て見られてしまっただろうが、そのことについて煩悶する余裕はない。
異次元としか表現できない、暗い暗い世界の中で、危機感に視覚と聴覚が研ぎ澄まされる。
おそらく腕の先の男もそうなのだろうと、彼に絶賛片思い中のコックはすぐに思い至った。自分よりも先に敵陣に斬りこんでいく男だ。
ところが。
ずるり。と嫌な感覚がする。
痛いほど掴まれていた腕が、突然の解放を味わい、虚無感に震える。すなわち、ゾロが何らかの理由で手を放した。
少し闇に慣れ、右腕の方に目をこらせば、その先の想い人はがっくりとうなだれていた。
「っ…ゾロ!!」
呼びかけても返事もなく、そのまま大きな体躯は地に伏した。
大型獣が打ち倒されたときのように、どさりと大仰な音がサンジの耳を刺した。
慌てて腕やら背中やら抱え上げるが、まるで動かず、昏倒状態にあるようだと医学に明るくないコックにも理解できた。
チョッパーを呼びに行きたいところだが、しかし。
いかんせんここがいかなる空間なのか、果たしてあの愛おしい羊船の上にいるのかさえ判然としない状況では。
サンジはともかく、目の前の女性に、縋るように視線をやるしかなかった。
「そぉんな顔しないでサンジちゃぁん。心配しなくていいわよぉ。彼はまぁだ、眠っているだけ。
たぁだね、取引をしたいの。
ねぇえ、サンジちゃぁん。
…あなたの大切なものを、置いて行ってほしいのよぉ」
まるで明日の天気でも諳んじるような調子で。
今ようやく思いついた、というように、にこやかにマリアは言う。
「サンジちゃんがぁ、その大切なものを、私にひとぉつ、くれるんならぁ、あなたを元のところへ帰してあげる!
それに、…かぁわいい羊のお舟にもぉ、手を出さないであぁげる」
昔と変らぬ聖女の笑みだ。それなのに瞳の奥だけは果て無く濁り、視線は棘に犯され、そのアンバランスさにサンジは泣きたくなる。
彼女はサンジを脅しているのだ。彼の仲間を質にとって。
愛らしかった彼女に、いったい何が起こったのか。
聡いコックが眉根に憐憫を滲ませると、やはり聡い聖女はそれに気づいて笑みを深くした。
「…サンジちゃんは、今も昔も、優しいわねぇ。
でもあなたはぁ、私の身の上話なんて、気にしなくていいのぉ。
それで、ねぇえ、私に一体なぁにをくれるぅ?」
サンジは腕の中のゾロの背を少し、抱きしめた。
抱きしめて、髪に一度だけ触れて、そうして、意図して手荒く地面にたたきつける。
こんなもの、触れるだに厭わしい、そんなふうに見えたなら成功だ。
胸ポケットの煙草をゆったり探り、おもむろに火をつけ、マリアに煙がいかないようにしながら、ふぅと吐き出す。
「困ったな。親の仇より憎たらしいクソマリモでも差し出して、おれが助かるってんなら簡単なんだけど、マリアちゃん。
今回は急なデートだったから、宝石やお金や、高価なものはなにも用意してないんだ」
ポーカーフェイスは持ち合わせが少なく、上手く誤魔化せたかはわからないが、サンジは可能な限り優しく微笑んだ。
不思議と落ち着いていた。
守るべき未来を、誇りを、野性を、背中に庇っているからか。気持ちがしゃんとしていた。
数分前の涙ずくの自分がうそのようだった。
だから、次に聖女がどんな言葉を発するか、それもなんとなし分かっていたような気がする。
「じゃあ、サンジちゃんのぉ、その黒曜石みたいなきらきらの目やぁ、はちみつみたいな素敵な髪でしょぉ、それにお日さまみたいに光る心臓、そぉういうので手を打ってあげる!」
「…それでいいの?
…わかった」
マリアは今度も、少女のように無邪気に提案を持ちかけた。
その背後の扉が、ぎぎぎと軋む。
クソ鍋蓋、間違ってもまだ開くんじゃねーぞ、と内心歯噛みしながら、駆け引きめいたやり取りは続く。
マリアの笑うのに合わせ、上質そうなワンピースがまた、ふわりと揺れる。
「うまく、隠したつもりなのぅ。背中がちりちりしちゃうわねぇ」
「……ああ。勘の鋭い女性って、おれ好きだなぁ」
「ふふ、ありがとぉ!
いいわよぅ、いっとう大切なもの、とやらに、お別れの挨拶をするくらい、私許してあげるわよぅ」
「こちらこそありがとう、マリアちゃんは今も昔も、本当にキレイだし、どこまでも優しいなぁ!」
「…サンジちゃぁんは、いつまでも掴めない男だわ」
だから私はここに、来たのだけれどね、とマリアは唇を一文字に引き締めた、笑わない彼女を見たのは、実はサンジは初めてだ。
その真意を表情だけで推し量るには、サンジはきっとまだ子どもだった。
「おれ、レディにみっともないとことか、絶対見せたくなかったんだけどなァ」
「どぉうか気にしないで、…私はもう、レディじゃぁないわ」
「いいや、レディだよ。
マリアちゃんは、いつでもおれの、思い出のいっとう最初のページを、綺麗な夏の色に彩ってくれてる。
今も、その頃とちっとも変わらないよ」
マリアが驚いたように目を瞠り、それに鷹揚に頷いてから、サンジは地に伏した獣をたいせつに抱き起した。
耳鳴りがようやく、ゆるゆると萎むようにおさまりつつあった。
いつもは無邪気に大口を開けて眠るこの男が、眉根を寄せ、苦しげに息を発している。
抱えた頭、冗談のような色の髪のその下、うっすら汗ばんでいた。
愛おしい。早く救ってやりたい。だって好きだ。こんなにも好きだ。
ああ、こんな風に、泣くのは、格納庫の床にしみったれた涙を吸わせるのは、きっとこれが最後だ。
ゾロ。
「ゾロ」
「なぁ、ゾロ」
「でもおれは、実際嬉しいんだ。おれだけで済むって、結構な奇跡だ。
てめえは今まで通り、夢を追っかけていられる、
これっておれにとっちゃぁ、意外や幸せなことなんだ」
「ゾロ」
「さよなら、ゾロ」
「この恋は、おれが持っていく。
しがらみのない世界で、世界一へ突き進め」
「ゾロ」
「…ゾロ」
「どうか、どうか、」
どうか。
「ばかにするな」