「…少しは骨があるか?」


途端、暗闇からシューシューというあの隙間風のような音とともに、あの不快な声が降ってくる。

人間を甚振る久方ぶりの喜びに、気色満面、といったところか。本当に趣味が悪い。


「だがまあこのような小骨など、それこそ取るにたらぬものだ」


霧散したゼフが、再びなにやら実体となって集いつつある。

まず、ぎょろりと鋭く光るものが二つ覗く、黄色いそれは、どうやら目玉らしいが大きさがとんでもない。ここが地獄の一丁目でなければ、月が増えたかと見紛うところだ。

そうして舌(と思しきもの)が、ぞっとするほど長く垂れている。

太く、大きく、醜く蠢くその姿は、まさしく蛇だ。

またしても耳が痛い。マリアのときの比ではなく、背筋は凍るように寒いし、それなのに冷や汗がとまらない。

人ならざる者だ。眼前にそびえるのは、神でないならやはり悪魔。

そいつがその真価を提示する、


大蛇が、のったりとそこに現れた。



「…そうかァ?小骨も喉に刺さりゃあ、死にそうに不快だぜ、なあミドリマン」


サンジはわざと、にっこりとほほ笑みながらゾロに声をかける。

皮膚と言わず内臓と言わず怖気立つような気分の悪さを、得意の見栄とか意地とかでむりやり押し込める。

そうして思い出したように、胸ポケットから目当てのものを取り出して火をつけ、ふと気づく、こんなに長く喫煙を忘れていたのも久しぶりだった。

ゾロはゾロでマイペースかつ豪快に笑い、


「そうだなぁ、お偉い悪魔様もおれのように喉を鍛えてりゃあいいが、なあダーツ野郎」

「…マリモてめえもう喋るな」

「グルまゆてめえこそひっこんでろ!」


吹き出す冷や汗を気力でいさめ、いつものごとく口論しながら、三打四打と撃ち込んでいく。

サンジの脛を足掛かりにゾロが跳躍、電光石火の斬撃を繰り出し、その背なに隠れたサンジの左足が追撃する。

悪魔は長い舌を鞭にして、二人を絡め取らんとするが、ゾロが鬼徹で跳ね返し、和同一文字で地面に縫いとめる。

ところがそうした途端に霧となってその部位自体が立ち消えてしまうのだ。


「…コック。気づいてるか」

「言うな。他の方法だ。

 賭けてくれと…、マリアちゃんを救けると、おれは彼女に確かに言った。

 あれを嘘にはできねえ」


サンジが、悪魔の尾の一撃を弾く。

ゾロはその尾を斬りつけ(結局はそれも霧散したが)、

…そうして、サンジに笑いかけた。


「…そうかよ。
 
 まァてめえは、あの女と…いやこの世の中のどの女でも、女とおれとを天秤にかけたところで、ぜってェに女を選ぶんだろうな」


 かつてない笑顔が自分に向けられたことに、そんなまさかの出来事に、サンジは哀しいかなこんなときですら動揺する。


「…っんでそんな嬉しそうなんだよ」

「いいや?…鼻持ちならねェと思ってたてめえの騎士道とやらだが、まあ…

 
 それでこそてめェかと、今はそう思っただけだ」
 

悪くねえ、

と白刃の主は、また歯を見せて笑って、命のやり取りをするようなこの場面でもサンジは、やはり好きで好きで泣きたくなる。

背中を預けるこの男が、少なからず自分の根本を理解してくれた事実はそれだけで、恋心と気概を奮い立たせるに十分だった。

痛めつけ続けてきた恋心が、報われた喜びに震える。

先ほどのキスやら抱擁やらが瞬時に思い出され、ああ、恋を、心を、あのとき指と一緒に焼いてしまわなくて本当によかったと、思った。


「ゾロ」

「ああ?」

「…あいつ仕留めたら、なんでも好きなもん、作って食わせてやる」

「上等!」


ゾロは胸の空くような表情に、サンジはやはり泣きたい。

そうして本当に泣けてくる前に、涙で視界と思考が曇ってしまう前に、目前の敵を踏み砕くための画策をせねばならなかった。

サンジはマリアの話から今まで聞きかじった悪魔についての言伝を、深く思い返していた。

じっと右手指に挟まれた、煙草を見る。


一つ灯。



「…まァいろいろ、試してみますか」

「まどろっこしいのは嫌いだが、

 …てめェなんか勘付いてやがんな?」

「マリモ君のその軽ぅいおつむにも、おれのように素晴らしく回転する脳みそが乗っかっていればよかったのにねェ」

「斬るぞてめぇ、さっさと教えろ」

「やってみる価値があるかもってだけの、ただの思いつきだけど…な!」


言いながらサンジは、襲いかかる蛇の尾を蹴り飛ばす。その片手間、胸元のライターを探る。(マッチの他に彼は、雨でも機能するこれを常備している)

とんでもない質量に、足やら腰やらの骨がぎりぎりいっている気がするが、構っていられない、


「鬼徹よこせッ」

「ああ?」


悪態をつきながらも、ゾロは的確に意図を理解し、発案者の右頬の辺りに鬼徹の切っ先を差し出す、

そこにライターのオイルをぶちまけて、素早く咥えた煙草で火をつける、

いくつもの血を、人間の油を、その命を吸っている鬼徹は、ライターの油を呼び水としておそろしく燃えた。

闇に立ち向かう、炎だ。静かに滾る。

まるで希望の光のよう、とマリアが呟く。

まるでゾロだ、とサンジは思う。



「ぶちかませ!」



燃える剣が、逃げる尾を、ついに捉えた。